2010年03月21日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第22回「マルコによる福音書3章22節〜30
節」
(09/10/11)(その2)
(前号より続く)
それでは、ファリサイ派の見解とはどのようなものだったのでしょ
うか。
その第一は、「あの男はベルゼブルに取りつかれている(原文は
「ベルゼブルが取りついている」)」でした。
神の権威によってではなく、人間が悪霊祓いを行いうる唯一のケー
スは、ある人が、祓おうと思っている悪霊よりもより上位の悪霊を
自分の身に憑依させて行う、これのみです。イエスもそうやって悪
霊祓いをしているに違いない。それではイエスが憑依させている悪
霊=ダイモニオンは何か? きっとベルゼブルに違いない、という訳
です。
それでは、ベルゼブルとはどのような悪霊=ダイモニオンなのでしょ
うか。ベルゼブルに似た名前を持つ異教の神は、旧約聖書列王記下
1:2に「バアル・ゼブブ」という名で出てきます。ペリシテ人の町、
エクロンで祀られている神でした。ベルゼブルは、この神に始まる
ダイモニオンでしょう。「バアル」は異教の神の名ですので、「ゼ
ブル」ないし「ゼブブ」がどういう意味か、で神の名が決まってき
ます。いくつかの説を挙げると、「ゼブブ」は蝿の意味、「ゼブル」
は糞ないしは住まいの意味とする説があります。ベルゼブルは「蝿の
神」「糞の神」、せいぜい「住まいの神」という名を持ったダイモニ
オンなのです。当時のダイモニオンの番付表があるわけではないの
で、確かなことはわからないのですが、その名から推測すると、そ
れほど上位のダイモニオンではなさそうです。ヤクザの世界で言え
ば、「小親分」といったところでしょうか。それでも悪霊祓いは可能
です。そして、もしこの推測が正しいとすると、ファリサイ派は、
イエスの悪霊祓いに神の権威を認めないばかりか、人間の行う悪霊
祓いにしても、かなりレベルの低いものである、と馬鹿にしていた
ことになります。
そして、第二の見解は、「(イエスは)悪霊の頭の力で悪霊を追い
出している」です。ファリサイ派の見解によれば、イエスはベルゼ
ブルを憑依させるに止まらず、悪霊の頭の力を利用して悪霊祓いを
行う悪霊界のフィクサー=黒幕(いわゆる霊能者)になるまでに至って
いるということです。
イエスに神の権威を認めようとしないファリサイ派の罪が、神の
子を霊能者に貶めてしまう冒瀆を生み出しました。そして、イエス
の身内さえをも惑わすこととなってしまったのです。
23〜27節「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて
語られた。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国か内輪
で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめ
して争えば、立ちゆかず滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上
げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取
ることはできない。まず、縛ってから、その家を略奪するものだ。』」
イエスは律法学者たちの冒瀆にその場では反論なさいませんでし
た。真理は反論することによって明らかにされる訳ではありません。
今は、真理は実現されないかもしれませんが、やがて明らかにされ
る真理を、イエスは彼ら(おそらく弟子たち)を呼び寄せ、たとえを
もって示されるのであります。イエスが語られたたとえはサタンの
物語です。
ところで、マルコではサタンが登場するのは、1:17に次いで二回
目です。1:17の講解の際に触れたように、旧約聖書では、サタンは、
神の子ら、すなわち天使の一員で、人間の罪を告発するのがその仕
事でした。ヨブの物語ではその務めを遺憾なく発揮し、神から「義
人」であるとしてお褒めに与っていたヨブを痛めつけ、その本音を
引き出させようとしています。
イエスに対しても同様でした。洗礼を受けて、聖霊が降り、父な
る神と聖霊と一つであられる方として活動を開始されたイエスが、
本当に父なる神と一つであられるのか、本当に聖霊の導きのままに
父なる神に従順であるのか、サタンは、イエスを荒れ野という神の
見えないところへ追いやって試したのです。
が、この告発者としてのサタンですが、1:34の講解でふれたよう
にやがて、ダイモニオン=悪霊を率いて、神に敵対する集団を立ち
上げ、自らはその王に納まることとなるのです。
もちろん、この後も4:15、8:33など、サタンは相変わらず告発者
としての役割も果たしておりますが、今やサタンが悪の王国を築い
ていることが明らかになったからには、神の権威を持ったイエスの
お仕事は、サタンの王国そのものをつぶすこととなったのでありま
す。
そんなイエスがサタン王国の子分や、ましてや黒幕であるはずが
ありません。もしそうだったら、サタン王国は自滅してしまうでしょ
う。しかし、現実のサタン王国はますます強固になっているのです。
イエスがなしておられることは、強い人サタンを縛り上げ、サタン
に囚われている人を奪い取り、略奪して救うことです。
さて、イエスはサタンに勝利したのでしょうか。
(この項、続く)
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