2010年03月14日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第21回「マルコによる福音書3章20〜30節」
(09/10/04)(その3)
(前号より続く)

 イエスの家族は、少なくともヨセフとヤコブは律法主義的傾向を
持った人たちでした。その当時、律法主義的傾向を強く持ったグルー
プはファリサイ派でした。イエスの家族、少なくともヨセフとヤコ
ブは、最初はファリサイ派に属していた、ないしはシンパであった
と推測されます。

 21節に戻りましょう。イエスの家族を核とする親族一同がイエス
のよい評判を聞きながら、それを受け入れることをせず、逮捕しよ
うとしたのは、その時点では、彼らがファリサイ派だったか、ある
いはファリサイ派と同じ見解を持っていたからです。では、そのフ
ァリサイ派と同じ見解とは何でしょうか。

 21節後半「『あの男は気が変になっている』と言われていたから
である。」
 イエスの働きに聖霊の働きを認めるのではなく、「あの男(イエス)
は気が変になっている」という見解でした。「あの男は気が変になっ
ている」と言った人は、原文では「彼ら」となっています。イエス
の親族一同か群衆かどちらかです。新共同訳聖書では、「それは群
衆である」と解釈し、「と言われている」と訳したのです。しかし、
先ほども述べたとおり、この時点でのイエスの評判はすこぶるよく、
群衆はイエスを受け入れていました。この時点で群衆がこのような
否定的なことを言うわけがありません。協会訳聖書が正しく訳して
いるとおり、「あの男は気が変になっている」と言ったのは、身内
です。身内がそういう見解を持っていたがゆえに、よい評判を聞い
ているにもかかわらず、イエスを逮捕しに来たのです。そしてその
身内の見解を支えたのが、エルサレムから下ってきた、おそらくファ
リサイ派の律法学者の考えでした。22節以下が残ってしまいました
が、後半は次回の講解に譲らせていただきたいと思います。
 イエスは(も)、家族の中にクリスチャンの信仰と対立するものを
抱えていました。が、イエスはその家族をあいまいにしたわけでも
なく、否定したわけでもありません。イエスはその対立する立場に
ある家族を受け入れたのです。ヨセフが結局イエスの父として用い
られ、ヤコブが教会の指導者として殉教したところに、私たちは神
の大きなご計画を見るのであります。

(この項、終わり)


第22回「マルコによる福音書3章22節〜30節」
(09/10/11)(その1)

 前回の続きです。

 22節「エルサレムから下ってきた律法学者たちも『あの男はベル
ゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を
追い出している』と言っていた。」
 イエスがシモンの家で三度目に癒しをされた場面での出来事です
。「一同が食事をする暇がない」くらい、多くの人が癒しに与りま
した。
 ところがここに、今までのイエスの癒しの場面にはいなかった二
つのグループの人がいました。その一つは、たぶん家族をも含む
「身内(親族一同)の人たち」です。失敗に終わったことと思われま
すが、何とイエスを取り押さえに来ました。「身内の人たち」がイ
エスのよい評判を聞きながらこのような行動に出たのは、身内とく
に家族がファリサイ派の見解に強く影響を受けていたと考えられる
から、ということを先日学びました。
 そしてもう一つは、第二のグループ、イエスの家族にも大きな影
響を与えたと考えられる、エルサレムから下ってきた、おそらくファ
リサイ派の律法学者です。
 このグループはイエスの悪霊祓いについて二つの見解を持ってい
ました。一つは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、もう
一つは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。」でした。この二
つの見解は原文では一つの動詞「言っていた」の下で並べられてい
ますので、別々のものではなくセットと考えられます。ファリサイ
派では、イエスの癒し、癒しそのものは問題視していませんが、と
りわけ悪霊祓いを問題視し、イエスの悪霊祓いについての統一見解
が出来上がっていたのではないでしょうか。エルサレムからわざわ
ざ律法学者がガリラヤまで下ってきたのは、その統一見解を伝える
ため、とも考えられます。
 すでに学んだように、悪霊=ダイモニオンは、もともとは異教の神
でした。これに支配を及ぼすためには、当然のことながら、神の権
威をもってせねばなしえません。神の子であられるイエスは、悪霊
祓いがお出来になられて当然ですので、ファリサイ派も素直にそれ
を認めさえすればいいのです。
 が、律法主義者である彼らは、彼らが固着するユダヤ教律法を超
えた権威を主張されるイエスをどうしても、自分たちの主義主張に
固着するかぎり受け入れることができません。しかし、現に悪霊祓
いは起こっており、多くの人がイエスを信じるようになっています。
自分たちの集団を守るためにどうしたらよいか、苦肉の策として、
悪霊祓いを神の権威を持ち出さずに説明する方法はないものか、そ
うした「苦労」の末得られた結論が、この二つの見解だったのです。

(この項、続く)


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