2010年03月07日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第21回「マルコによる福音書3章20〜30節」
(09/10/04)(その2)
(前号より続く)
兄弟姉妹についてはどうでしょうか。ヨセ、ユダ、シモンについ
てはマルコ6:3で名前が挙がっているだけであり、妹たちについては
名前も知られておらず、どのような人であったか全くわかりません。
が、ヤコブに関しては、パウロから「主の兄弟ヤコブ(ガラテヤ1:19)」
と呼ばれ、イエス・キリスト復活後のエルサレム教会の指導者の一人
であったことがわかっています。よみがえりのイエスに出会ったと
記録されていますし(コリント一15:7)、聖書には記録はありません
が、当時の歴史家、教父たちの記録によれば、エルサレムで殉教し
たと伝えられています。最期は、聖人に値するクリスチャン、しか
も教会の指導者として死にました。
知られているかぎりでではありますが、立派なクリスチャンばか
りであるイエスの家族、そしてその家族を中心とした親族一同と、
「イエスを逮捕する」という行動、ますます結びつかなくなってし
まうのですが、一体どうしたことなのでしょう。
しかし、ヨセフとヤコブについては、この二人は、もともとはク
リスチャンとは違う方向を向いていたことが聖書から明らかになっ
ているのであります。
まず、ヨセフです。マタイ1:18〜25を見てみましょう。イエス・キ
リスト誕生の時の出来事です。ヨセフとマリアは婚約していました
が、二人が一緒になる前に、マリアが聖霊によって身ごもっている
ことが明らかとなりました。そのような現実に直面した時、ヨセフ
はどのように対応したでしょうか。
マタイ1:19「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを
表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」
もしも、婚約者マリアが、ヨセフのあずかり知らないところで妊
娠してしまっていたのでしたら、当時でしたら石打ち刑になるべき
ところですから、優しいヨセフとしては、表ざたにしない、ひそか
に離縁するという行動を取るのは筋が通っています。
しかし、その一節前の18節によれば、聖霊によって身ごもってい
るということが明らかになっているのですから、神を畏れる信仰者
であれば、当然マリアを受け入れるべきであります。が、ヨセフは
マリアを受け入れることができませんでした。ヨセフがこの時マリ
アを受け入れることができなかったのはなぜでしょうか。それはヨ
セフが「正しい人」だったからです。「正しい人」とは「律法に従
う人」の意です。ヨセフは律法主義的傾向をもった人でした。それ
ゆえ「聖霊の働き」を受け入れることよりも、律法の規定に従って
行動することを優先しようとしたのです。
次に主の兄弟ヤコブについてはどうでしょうか。使徒言行録15章
を見てみましょう。
イエス・キリストの復活後、アンティオキアの教会での出来事で
す。この教会には、ユダヤ人でクリスチャンになった人たちだけで
なく、異邦人、ユダヤ人以外でクリスチャンになった人も多く含ま
れていました。そこへユダヤ、多分エルサレムの教会から人がやっ
てきて、「モーセの慣習に従って、割礼を受けなければあなた方は
救われない。」と教えました。つまり、クリスチャンも、特に異邦
人のクリスチャンについては、「律法を守らなければ救われない」
と教えたのであります。
パウロとバルナバは反対しました。パウロによれば、ガラテヤの
信徒への手紙やローマの信徒への手紙に記されているごとく、クリ
スチャンとは、律法の行いによってではなく、ただキリストの恵み
を信ずることによって救われた人のことを言うのです。律法を守る
ことは救いの条件にはなりません。異邦人クリスチャンに割礼を押
し付けることなど、もっての外です。
この論争は、エルサレム教会へ持ち込まれ、エルサレムでの使徒
会議が開催されました。
使徒言行録では15章7〜11節にペトロの演説だけが記録されていま
すが、いろいろな発言がなされました。そして最後に主の兄弟ヤコ
ブが調停案を出してそれが可決されました。ヤコブの調停案は次の
ようなものでした。
使徒言行録15:19〜「それで、わたしはこう判断します。神に立ち
返る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉
と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように
と、手紙に書くべきです。モーセの律法は昔からどの町にも告げ知
らせる人がいて、安息日ごとに教会で読まれているからです。」
異邦人クリスチャンに割礼を強制することは避けられました。し
かし「偶像に供えた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と
血を避けること」という律法のこの部分は救いのために行うべき条
件として残ってしまいました。キリストの贖いの恵みによってのみ
救われるはずなのに、一部とはいえ律法も守ることが求められるこ
ととなりました。このクリスチャンとしての中途半端さは、ヤコブ
のおかげでしばらくキリスト教会を支配することとなりました。主
の兄弟ヤコブは、クリスチャンになってはいましたが、それでも律
法主義的傾向をもった人でした。
(この項、続く)
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