2010年02月28日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第20回「マルコによる福音書3章13〜19節」
(09/09/27)(その4)
 (前号より、続く)

 ところが、召しを受けてそれに答えながら、使命の重さに耐えき
れなくなった者が若干一名おりました。しかも何とこの人は、イエ
スを「引き渡す」行動に走りました。しかし、イエスご自身はこの
人のためにも死んで、「友のために自分のいのちを捨てる」愛を実
践されました。
 そこまでして救いの完成を願ってくださるイエス、私たちも、
「新しい」イスラエル十二部族完成のためのお手伝いをしたいもの
です。

(この項、終わり)


第21回「マルコによる福音書3章20〜30節」
(09/10/04)(その1)

 20節「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同
は食事をする暇がないほどであった。」
 「帰られる」と訳されていますが、この「家」はナザレにあった
であろうイエス自身の家ではなく、明らかに、カファルナウムにあっ
たシモンの家です。シモンの家にイエスが入られるのは2:1以来初め
てのことです。前回シモンの家では、中風の人が癒されるというす
ばらしい癒しの業が行われました。人々は、たぶんそれを覚えてい
て、またシモンの家に集まってきたのでしょう。病気の人は病気を
治してもらおうと、悪霊憑きの人は悪霊を追い出してもらおうと願っ
てやってきました。そして、イエスはいつものように、病気の癒し、
悪霊祓いをされたに違いありません。
 十二弟子が指名された後ですので、イエスの周りには、シモン、
アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、レビの五人だけでなく、その他の弟子
も一緒にいて手伝っていたはずです。それでも彼らは大変に忙しく、
食事をとる暇さえありませんでした。「食事をとる暇がなかった」
という表現は、この後6:3にも出てきます。が、ここより以前にはあ
りません。この日は今までで最大級の人が集まったのでしょう。
 ところが、ここに、今までのイエスの癒しの場面にはいなかった
二つのグループの人がいました。その中の一つのグループは「身内
の人たち」でした。

 21節前半「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来
た。」
 「身内の人たち」と訳されているギリシア語原文の言葉は、ギリシ
ア語らしい微妙な意味内容をもった言葉です。そのまま訳すと「彼
の者たち」です。何のことだかわかりません。古典ギリシア語では
「使者」とか「大使」を意味しました。旧約聖書のギリシア語訳聖
書でも、この語は使われています。そこでは「部下」という意味で
す。
 ところが、同じ旧約聖書のギリシア語訳聖書でも、その同じ言葉
が「親族一同」の意味で使われているところがあります。箴言31:21
ですが、新共同訳聖書では、「一族」と訳されています。マルコは
この「親族一同」の意味でこの語を用いています。ただ、この後の
この人たちのただならぬ行動から、この語は、「親族一同」ではな
く、友人か、弟子たちか、はたまた律法学者のことを指すのではな
いか、と考える人もいますが、この語は、間違いなく「親族一同」
を指すのであります。
 その「親族一同」がイエスのことを聞いて取り押さえに来ました。
イエスの何を聞いたのでしょうか。イエスが癒しをしている、悪霊
祓いをしている、ということでしょう。このイエスについての情報
は、この時点ではよい評判のはずです。なぜなら、イエスについて
よい評判が立っているのでなければ、あれだけたくさんの人が、病
気を治してほしい、悪霊を追い出してほしい、とイエスの許に集まっ
てくるはずがないからです。
 なのに、そのよい評判を聞いたイエスの親族一同が、イエスを取
り押さえに来たのです。この「取り押さえる」と訳されている語は、
いろいろな意味を持つ言葉ですが、マルコでは14章で最も多く用い
られており(5回)、そこではすべて「逮捕する」の意味です。イエスの
親族一同はイエスのよい評判を聞きながら、イエスを逮捕しに来た、
一体なぜなのでしょうか。
 ところで、イエスの親族一同に、イエスの両親・兄弟姉妹は含ま
れるのでしょうか。「親族一同」を指す言葉には、「両親」の意味
もあり、当然含まれるのであります。
 イエスの両親は、言うまでもなくマリアとヨセフです。イエスの
兄弟姉妹については、マルコ6:7に記述がありますが、イエスには、
ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという四人の弟がいたこと、名前は知
られていませんが、妹たちがいたことがわかっています。
 イエスの家族はどのような人たちでしょうか。まず両親ですが、
マリアは言うまでもなく、父ヨセフも後にカトリック教会からは聖
人と認められています。聖人とは、「キリスト者として優れた生き
方、死に方をし、教会によって、崇敬に値すると判断された人々」
のことですから、要するに、二人は立派なクリスチャンであったと、
今では教会から認められる、そういう人たちだったということです。

(この項、続く)


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