2010年02月07日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第19回「マルコによる福音書3章7〜12節」
(09/09/20)(その2)
 (前号より、続く)

 実は、この節は写本のテキストが分かれていて、翻訳がとても難
しいところです。まず、今の新共同訳の聖書では、協会訳でも同じ
ですが、群衆のグループが二つあるように読めます。第一のグルー
プはガリラヤから来たおびただしい群衆、第二のグループは、ガリ
ラヤ以外のユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、
ティルスやシドンの辺りからの群衆です。新共同訳によれば、ガリ
ラヤからの群衆はともかくイエスの後について来ました。たぶん、
彼らは、イエスがカファルナウムやその周辺で教え、癒し、悪霊を
追い出された様子を見たからでしょう。
 一方、ユダヤ、エルサレムその他の地方から来た群衆は、イエス
のしておられることを残らず聞いて彼のところへ来ました。ユダヤ、
エルサレムは遠いですし、イエスも宣教活動開始後まだ行かれてい
ませんから、この人たちはイエスのしておられることを見てはいま
せん。聞いて来たというわけであります。

 日本語訳聖書ばかりではありません。古代の写本もそのように訳
しているものが多くあります。しかし、いくつかの有力な写本の中
に7節の動詞「従った」がないものがあるのであります。これらの写
本の読みだと、ここはどのような意味になるでしょうか。ガリラヤ
から来たおびただしい群衆も、他の地から来た群衆も、等しくイエ
スのしておられることを聞いただけでそばに集まってきたことにな
るのであります。
 どちらの写本が原本を正しく伝えているのでしょうか。それはわ
かりません。しかし、次のことは言えるのではないでしょうか。イ
エスのみ業を直接見ることのできた人は幸です。しかし、信仰は見
ることによってではなく、聞くことによって起こるのです。イエス
がヨハネ20:29で「見ないのに信じる人は幸である。」と言っておら
れるとおりであります。イエスを直接見ることのできたガリラヤの
人々も、信仰を促されたのは、見ると同時に聞くことによってだっ
たのではないでしょうか。ですから、ユダヤなど、イエスのことを
伝え聞くことしかできなかった人々も平等に招かれているのです。
今の私たちも…。
 ともかく、こうして「聞く」ことを通して、イエスの宣教はより
広い地域に広がっていく、という新しい段階を迎えたのであります。
福音を「伝える」使命の大きさをもう一度覚えたいものです。

 9節「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意しておいてほしいと
言われた。」
 さて、このイエスの宣教の働きに弟子たちが何かお手伝いできる
ことはないのでしょうか。あります。が、それは小舟を用意すると
いう仕事でした。書かれてはおりませんが、弟子たちはイエスの望
みどおり舟を用意したことでしょう。が、彼らは、自分たちの所有
する釣り船を用意するしかなかったのではないでしょうか。
 しかしイエスは、なぜご自分の自由になる舟を所望されたのでしょ
うか。それは、「群衆に押しつぶされないため」でした。釣り船に
は似つかわしくない役割と思えたかもしれません。しかし、結果と
してこの舟は説教台として用いられることとなりました。イエスか
らの依頼は、最初はそうは思えなくても結局大きく用いられること
を覚えたいのであります。

 10-11節「イエスが多くの病人を癒されたので、病気に悩む人たち
が皆、イエスに触れようとして、そばに押しよせたからであった。
汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』
と叫んだ。イエスは自分のことを言いふらさないようにと霊どもを
厳しく戒められた。」
 まず、「病気に悩む人」ですが、これは原文を正確に説明すると、
「神の懲らしめとして病気をもっている人」です。今の私たちには
どの病気のことを指すのか正確にはわかりません。しかし、ここで
イエスの許へ来た人々は、病の症状に苦しんでいただけではなく、
神に対して負い目を負い、イエスによる救いを必要としていた人た
ちだったのです。
 第二に、イエスは多くの病人を癒されましたが、イエスの許へ来
たのは「病気に悩む人」でした。「イエスでなければ救われない」
という必要性をもつ人が救いに与ることができたのです。

 宣教は新しい段階に入り、すべての人が救いへの招きを「聞く」
ことができる時を迎えました。私たちも「聞いた」一人です。私た
ちも本当に救われる必要性を覚えたならば、まっすぐにイエスの許
へ出かけ、救いに与る者となりましょう。そして、さらには、弟子
たちのように、イエスの宣教をお手伝いとする者となりましょう。

(この項、終わり)


第20回「マルコによる福音書3章13〜19節」
(09/0927)(その1)

 今回は十二弟子選任の物語です。よく知られた物語です。
 十二弟子が選ばれたことは確かなのですが、なぜ十二人でなけれ
ばならなかったのでしょうか。更に、イエスは十二人に何を期待し
ておられたのでしょうか。これらの問いを持ちつつ、物語の流れを
追ってみましょう。

(この項、続く)



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