2010年01月31日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第18回「マルコによる福音書3章1〜6節」
(09/09/13)(その3)
(前号から続く)
ところで、この善という語は旧約聖書では「慈しみ」と訳されて
いる語です(詩編118編1節など)。神はその慈しみによって人間に何
を与えてくださったでしょうか。それはアダムにまずもたらされた
「命」です。当然命を大切にするということにも賛成せざるを得な
い。
彼らは納得させられたのです。せざるを得なかったのです。なの
に、彼らは沈黙しました。この沈黙は意味深です。「うん、その通
りだ。」と、イエスの言葉に従ってイエスを信じて神を礼拝する信
仰へ進むことをせず、それでもイエスの権威を否定しようとする方
向へ進みました。沈黙はその反抗のしるしです。彼らは罪の支配下、
そして、神に意図的に反抗する悪霊の支配下に自分を置いてしまっ
たのです。
5-6節「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな
心を悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。伸
ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、
早速ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと
相談しはじめた。」
この「怒って」は、1:25でイエスが汚れた霊に対してお怒りにな
られたのと同じ反応です。神に意図的に反抗する力である悪霊に対
しては、それに捕らわれてしまった人が悲しいからこそ、イエスの
権威を見える形でお示しにならなければなりません。癒し、完全な
癒しがそれでした。こうして、この日もイエスが権威をお示しくだ
さることで、私たちの救いの希望が確保されたのです。
しかし、その後の彼らの行動は異常です。この人々はファリサイ
派に属していたようです。ファリサイ派の人々が全員そうであった
とは考えられませんが、この人々は、イエスを殺そうということで、
何とヘロデ派と結託しました。ヘロデ派はユダヤ教の派では全くな
く、金と権力への欲望で結びついたヘロデのシンパです。悪魔的な
ものの行く末がここに示されています。
今日の出来事から始まって、悪がどんどん深まり、イエスの十字
架が近づいていきます。しかし、私たちはその向こう側に神の完全
な勝利があることを忘れてはなりません。暗闇が深まれば深まるほ
ど、夜明けは近いのです。私たちもイエスの勝利を目当てに歩んで
参りましょう。
(この項、終わり)
第19回「マルコによる福音書3章7〜12節」
(09/09/20)(その1)
前回は、場面はシナゴグ(会堂)でありまして、イエスが安息日の
律法にも勝る権威をお持ちでいらっしゃることが示されました。と
同時に、その権威に意図的に逆らう力も結集されたところで終わり
ました。さあ、その後は、続きはどうなるのでしょうか。
7節「イエスは弟子たちと共に、湖の方へ立ち去られた。」
イエスは湖の方へ立ち去られました。なぜ、何のためでしょうか。
ところでここで「立ち去る」と訳されている語は、マルコではこ
こでしか用いられていませんが、マタイによる福音書では10回も使
われており、マタイの頻出語です。そしてマタイでは、この語が
「危険を避けて立ち去る」の意味でしばしば用いられています(9:24、
27:5など)。ここもそういう意味でしょうか。そのように解釈する人
もいます。ファリサイ派の人々の一部が、ヘロデ派の人々と結託し
てイエスを殺そうと謀りはじめ、実際に殺す手立てを仕組んできた
ので「立ち去られた(逃げられた)」というわけであります。
しかし、マルコの先の方の物語を見てまいりますと、次にイエス
を殺そうとする動きに触れられるのは、8:31〜の「受難予告」の時
です。それまでは、イエスを殺そうとするあからさまな動きはあり
ません。それに加えて、その受難予告そのものからもわかるように、
イエスはその殺害計画を避けて逃げ回って生き延びようとしておら
れるわけではありません。人の罪のなれの果てとも言える「イエス
殺害計画」を受けて立たれて、自らが死んで、人類の罪の贖いとな
ろうとしておられるのであります。殺害計画が初めて発覚したから
といって、その途端逃げ出すなどという「せこい」ことをイエスが
なさるわけがないのであります。
イエスは町から退出されましたが、それは、新たな出発をされた
のでした。しかも、イエスが祈りに退かれた時のように(1:35)一人
ではなく、弟子たちを伴って出て行かれたということは、ここがイ
エスの宣教活動の転換点、重要ポイントであることを示しています。
ここで宣教は新たな段階へ入りました。
7節後半〜8節「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。ま
た、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティ
ルスやシドンのあたりからもおびただしい群衆が、イエスのしてお
られることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」
イエスの宣教の範囲が、ガリラヤから一挙に広まりました。が、
広まり方が問題です。
(この項、続く)
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