2010年01月24日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第18回「マルコによる福音書3章1〜6節」
(09/09/13)(その2)
(前号から続く)

 この会堂にも、神に権威を帰さず、律法を守っている自分に権威
を帰す者がいたようです。自分に権威があると思っている人は、自
分の権威を脅かす者に対して極めて敏感です。即座につぶそうと致
します。しかし、それにしても「イエスを訴えようと思って」という
表現は異様です。なぜなら、「訴える」という語は、マルコでは
15:3以下でしか用いられていません。イエスを十字架につけるため
に祭司長たちが訴えた場面です。まだ宣教開始から「程なく」なのに、
もうすでに「イエスは危険人物だ」という評判が広まっていたのでしょ
うか。確かなことは、今回は、最初から「イエスの権威を否定して
やろう」と人々が待ち構えているところで、イエスが会堂へ入って
いかれたということであります。

 書かれてはいませんが、前回(1:21)と同じように、イエスは会堂
で聖書を解き明かされたことでしょう。前回と同じように、正しい、
権威ある教えを教えられたことでしょう。しかし、聴衆は前回とは
違っていました。最初から「否定してやろう」という気でしか聞い
ていません。そこには、驚きも服従も起きません。こういう不幸な
礼拝が守られることもあるのであります。人々の関心は、イエスの
権威を否定し、引きずりおろすことのみ、彼らの権威の拠りどころ
である律法を、表面的にではありますが、守ることを迫って、イエ
スの権威を貶めようということであります。
 あまりのできすぎに、私は、彼らが連れてきたのではないかと想
像してしまうのですが、そこに片手の萎えた人―片手にしびれのあ
る人がおりました。
 この人の病気を治すかどうか、それがイエスの権威を貶めるため
の試金石となるのです。治せば、律法違反として訴追します。治さ
なければ、「普段言っていることと違うではないか」と言って非難で
きます。どちらにしても、イエスの権威は貶められ、否定されるの
です。そうやって、彼らはイエスを追い詰めるのです。

 ところで、安息日における癒しについての律法学者の判断はどう
だったのでしょうか。「命が危険にさらされている場合は助けよ」、
つまり、このケースでは「安息日が明けるまで待て」であります。治
せば訴追を免れない状況です。

 余談になりますが、福音書の物語を間違って継承・発展させた書物
の一つに「ヘブライ人の福音書」という書物があります。その中では、
この手の萎えた人(男性)が石工であって、イエスに「私はこの手で家
族の生活を支えているのです。私のこの手には家族の命がかかって
います。」と訴えたことになっています。こうなると、その人を治し
ても訴追は免れます。が、もしもこの人が連れてこられたとしたら、
彼らのたくらみは水泡に帰してしまいます。悪人は、間違ってもそ
のようなポカを致しません。逃げ場のない形で追い詰めてまいりま
す。追い詰められたイエスはどうしたでしょうか。

 3-4節「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言わ
れた。そして、人々にこう言われた。『安息日に律法で許されてい
るのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺す
ことか。』彼らは黙っていた。」
 イエスはその手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われま
した。この人は、自分の病気の苦しみに関係なく、権威争い、しか
も悪だくみをもっての権威争いの材料にされて、いらだっていたこ
とでしょう。それに加えて、さらにさらし者にされるが如くして「真
ん中に立て」と言われて、彼は「従えない」と思ったかもしれませ
ん。しかし、彼は確かに立ちました。彼にはわからなかったかもし
れませんが、イエスの言葉に従ったことが、彼の救いの第一歩とな
りました。前にもふれましたが、この「立つ」は、復活をも意味す
る語です。この時点ですでに救いがありました。
 そして、イエスが人々、イエスの権威を貶めようとして敵意をもっ
て臨んできた人々に告げた言葉が「安息日に律法で許されているの
は、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すこと
か。」でした    。

 追い詰められた時の答えは、逆に相手を追い詰めるものでなけれ
ば効果がありません。この困難な対応をイエスはしばしばなされま
した。一番有名なのは、「ローマに税金を納めるべきかどうか」問
われた時です。もし「納めよ」と言えば、売国奴であると非難され
ます。「納めるな」と言えば、ローマへの反逆行為として訴えられ
ます。その時、イエスは貨幣の銘を確認した上で、「皇帝のものは
皇帝に、神のものは神に。」と言われました。相手は納得せざるを
得ませんでした。
 ここでは、敵は律法の権威を傘に着ているのですから、イエスに
「安息日に律法で許されているのは」と言われれば、イエスと同じ
土俵に立たざるを得ません。そして、その安息日律法を定めたのは
神だ、と彼らが主張しているのであるからして、その神の特性であ
る「善」を行うことがもっともよいことだという結論にも賛成せざ
るを得ないのであります。

(この項、続く)



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