2010年01月17日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第17回「マルコによる福音書2章23〜28節」
(09/09/06)(その3)
(前号より、続く)
27節「そして、更に言われた。『安息日は、人のために定められ
た。人が安息日のためにあるのではない。』」
この言葉を、「人は安息日律法より上にいるのだから、安息日律
法を守るも破るも人の自由だ」と受け取る人がいるかも知れません。
それで、マタイとルカはこの言葉を削りました。が、この言葉はそ
もそもイエスと同じ時代のファリサイ派のあるラビが言った言葉で
す。「安息日の律法は、神がご自分に似せて造られた人間を苦しめ
るためにつくられたものではありませんよ。むしろ、人の救いに役
立つように用いなさい。だから、人道的な例外規定を設けなさい。」
という意味なのであります。よって、世の救いのために働くイエス
の弟子たちの行為は益々例外として認められるべきなのであります。
28節「だから、人の子は安息日の主である。」
ユダヤ教においても、そこまで救いに満ちた安息日が可能でした。
しかし、ユダヤ教では、安息日はユダヤ人だけのためのもの、その
恵みに与ることができるのは、ユダヤ人だけでした。が、神の子と
して、神の権威をもって来られたイエスは「安息日の主」でもあら
れますから、ユダヤ人のためだけではない、全人類のための安息日
を新たに開いてくださるに違いありません。
そのとおり、イエスの復活とともに、日曜日、主の日がすべての
人のための安息日として備えられ、教会を通して今や全世界に広ま
ったのであります。私たちは、私たちのために備えられたこの休息
と、そして感謝の日を、喜びをもって受け止めたいものであります。
(この項、終わり)
第18回「マルコによる福音書3章1〜6節」
(09/09/13)(その1)
1〜2節「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎え
た人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の
病気をいやされるかどうか、注目していた。」
前回に続いて、安息日の出来事です。
前回は、安息日に弟子たちが麦畑の中で道を踏み分け、そのついで
に麦の穂を摘んだことがファリサイ派の人に咎められる、という出
来事でした。今回は会堂(シナゴグ)での出来事です。
次の週、あるいはそれよりももっと後のことかもしれませんが、
イエスは安息日に礼拝を守るために会堂にお入りになられました。
イエスは毎週安息日には会堂で礼拝を守られていたようです(ルカ
4:16)。が、マルコの「また」はそのことを言っているのではあり
ません。このマルコによる福音書では、安息日に会堂で事件が起こ
るのは二回目だ、と言っているのです。
前回(1:21-28)は、会堂で、イエスが教えを通して、そして汚れた
霊を追い出されることによって、ご自身の権威を示されました。神
の子たるイエスの権威はまず礼拝の場で示されねばなりません。と
ころが、前回は悪霊がその邪魔をしようとしました。そして、今回
も、イエスが権威をお示しになられることに抵抗し、否定しようと
する者が出てきます。「人々」としか書かれていませんが、この人々
はどうやら安息日律法に固着する人のようであります。
安息日律法に固着する人が、真面目な宗教家であるはずなのに、
なぜイエスの権威を認めようとしないのでしょうか。それは彼らが
律法主義者だからです。もちろん、ユダヤ教徒は皆律法を大切にし
ます。しかし、皆が律法主義者なわけではありません。律法主義者
は「律法を守ることのみが救いの条件である。律法を守りさえすれ
ば救われる。」と考えます。それゆえ、次の三つの間違いを犯しや
すいのです。
その第一は、律法を守っていさえすれば救われると考えているが
ゆえに、実生活で神に背く行いをしていても気づかないことがある
ことです。
旧約聖書の時代は、まだ神殿礼拝と律法遵守の両方が信仰生活の
車の両輪でしたから、所謂律法主義者はいませんでした。が、それ
に似た人はいました。
本日の旧約書ホセア書6章6節を見てみましょう。ホセアの批判の
対象となっているのは、神殿礼拝さえ守っていれば救われると考え
ていたらしい人々です。新約時代の律法主義の「律法」が、「神殿
礼拝」と置き換わっているだけで、そのあり方は一緒です。彼らは
いけにえをきちんと献げ、焼き尽くす献げ物をきちんと献げていま
した。それで救われると考えていました。ところが、ホセア書6:7以
下によると、その同じグループの人が強盗事件を起こしていました。
神を冒瀆する行いをしていました。気がつかなかったのでしょうか。
ということは、第二に、神殿礼拝なり律法なり、それさえ守れば救
われると考えている人たちは、自分の罪に気がつかないということ
です。
そして第三に、その結果として、神殿礼拝なり律法なり、きちん
と守っている「自分」に権威があるように錯覚してくるということ
です。
神殿礼拝にしても律法を守るにしても、神に権威を帰して、つま
り神の前で悔い改めと服従があって初めてよきものとして用いられ
るのです。私たちの現実はどうでしょうか。
(この項、続く)
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