2010年01月10日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第17回「マルコによる福音書2章23〜28節」
(09/09/06)(その2)
(前号より、続く)

 でも、それだけでは仕事を休まない人がたくさん出てしまうかも
しれません。それで聖書には出てこないたくさんの禁令をつくりま
した。ラビ的禁令と呼ばれます。さらにそのまわりに「セヤブ・ラ・
トーラー」と呼ばれる規定をつくりました。規定の総数は1521に達
したといいます。当然罰則もあります。聖書に基づくとされる禁令
違反の場合には贖罪の献げ物が要求されました。
 それでも当時の多くの人は安息日を喜んでいたとも言われますが、
こうなると、多くの人々にとって安息日は喜んで迎えるというより
は、安息日律法に違反していないか、びくびくしながら迎える日と
いうことになってしまいます。これが、イエスの時代の安息日の迎
え方の実態です。

 さて、物語に入って参りましょう。
 23節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子た
ちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。」
 断食についての問答が行われてから何日後のことかわかりません
が、ある安息日にイエスが麦畑を通っていかれると、それは収穫の
シーズン(4月〜6月)だったのでしょう。麦の穂がたわわに実ってい
ました。
 「弟子たち」は、この時点では、前回と同じく、シモン、アンデ
レ、ヤコブ、ヨハネ、レビの五人であると思われます。
 「歩きながら麦の穂を摘み始めた。」原文は「麦の穂を摘みなが
ら、道を開き始めた。」です。原文から、私たちはよりよくその姿
を想像できます。彼らは麦畑の中へ入って、麦をかき分けつつ、麦
の穂を摘みつつ、前進し始めたのです。近道をしようとしたのでしょ
うか。すると、

 24節「ファリサイ派の人々がイエスに、『ご覧なさい。なぜ、彼
らは安息日にしてはならないことをするのか。』と言った。
 この場面を、ファリサイ派の多分一般人が見ていました。場面設
定としてはうまくできすぎですが、たまたまそうなってしまったの
でしょう。私たちもよりによって会いたくない所で、会いたくない
人と会ってしまったりするものです。案の定、弟子たちの「安息日
にしてはならないこと」(禁令)違反を目ざとく見つけて、「ご覧な
さい。なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と彼
らの律法違反を指摘するとともに、それをなすがままにさせている
イエスを攻めました。
 ところで、ここで安息日違反とされていることは何でしょうか。
このような細かい点についても諸説あるのですが、「(弟子たちが)
麦の穂を食べた」とはマルコには書かれていませんので、マタイ、
ルカと違って、安息日に食事を作った違反ではなく、穂を摘むとい
う労働をした違反であると考えられます。
 が、イエスはファリサイ派の指摘、批判に納得されません。まず、
反論されます。

 25-26節「イエスは言われた。ダビデが、自分も供の者たちも、空
腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビア
タルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかに
はだれも食べてはならない備えのパンを食べ、一緒にいた者たちに
も与えたではないか。
 イエスはまず聖書に基づいて反論されます。サムエル記上21章2-7
節です。ダビデがサウルの手から逃亡中の時のことです。空腹のダ
ビデはパン5個を祭司アヒメレクに要求しました。そこには聖別され
たパンしかありませんでした。が、アヒメレクはそれをダビデに与
えたという物語です。
 イエスが言われているところを見ると、いくつか原文と違うとこ
ろがあるのに気づきます。イエスは大祭司アビアタルと言っていま
すが、実際は、登場する祭司は、アビアタルの父に当たるアヒメレ
クでした。また、ダビデがパンをとって食べ一緒にいた者たちにも
与えたのではなく、ダビデはパンを受け取って一人で食べたのでし
た。
 なぜ、このような違いが生じたのでしょうか。イエスが勘違いさ
れたのでも、マルコが書き間違えたのでもありません。サムエル記
上21章の物語が少し違った形で、すなわちイエスの言われた形で、
安息日律法の例外の例として語り継がれていたからです。義人は緊
急の場合には律法違反をしてもよい、という例外です。ダビでは、
この時点で、油注がれた者、つまり神から王として任職された義人
でした。この義人の例外規定がイエスの弟子たちにも適用されると
いうのが、イエスの主張です。
 しかし、ダビデが義人であることには異論はないとしても、イエ
スの弟子たちについては義人と言えるのでしょうか。イエスのお考
えはこうです。「自分は、この世に神の支配を実現するために来た。
弟子たちは、神の支配実現の手助けのために召した。それゆえ、弟
子たちは義人だ。」
 その神の支配実現は急がねばなりません。それゆえ、弟子たちは
急いだのであり、安息日に労働したことは、義人の緊急事態だった
のです。
 イエスはここで安息日律法そのものをないがしろにしておられる
のではありません。弟子たちの行為は十分に例外に相当する、とおっ
しゃっておられるのです。イエスはこの主張を補強するために、更
に言葉を継がれました。

(この項、続く)



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