『聖霊によりて、神につき、救いにつき
て、
全き知識を我らに与ふる神の言』
(日本基督教団信仰告白講解説教 5)
主たる聖書テキスト: ペトロの手紙一 1章10〜12節
(前略)ところが、私たちの時代、今のところ、終末はまだ来てい
ません。私たちは救いを一切知ることができないのでしょうか。
そうではありません。神の言は、ヨハネ1:1〜にあるごとく、イエス・
キリストにおいてすでに人となられ、救いを成就されました。ゆえ
に、イエス・キリストを証する新約聖書は神の言を伝えており、私
たちも終末の時のように救いを知ることができます。
イエス・キリストが人となって現れられる以前のことを記してい
る旧約聖書はどうなのでしょうか。旧約聖書もすでに学んだように
神の言を伝えています。旧新約聖書が終末における救いを伝えてい
ることを、本日の使徒書ペトロ一1:10〜からまなんでまいりましょ
う。
ペトロの手紙一は、1:1〜と5:2とによれば、ペンテコステ以後使
徒として立たせられたペトロが、パウロの弟子であるシルワノの助
けを借りて、小アジアの諸教会に宛てて書いた手紙です。当時小ア
ジアの諸教会には迫害の嵐が吹き荒れていました。しかし、それに
もかかわらず、主のみ名はほむべきかな、神は多くの改宗者を起こ
してくださいました。この手紙はそのことを喜び、若い改宗者をは
げます、そういう内容となっています。特に1:1〜4:11は受洗前の準
備教育のとき、読み継がれてきたのではないか、と言われてます。
この部分は言わばまだ新約聖書という形を取らない聖書でした。
洗礼を受けるということは、キリストの十字架の死によって、古
い罪の自分に死ぬことです。が同時に、キリストの復活の命を与え
られる希望に与ることでもあります。終末の救いを予めいただくの
です。こんな救いに与れるなんて、何とすばらしいことでしょうか。
1:6には、「それゆえ、あなたがたは心から喜んでいるのです。」と
受洗者の救いの喜びが率直に表現されています。
もうペトロの手紙の世代でもキリストに直接会ったことはありま
せん。しかも、洗礼を受けて、公にクリスチャンであるということ
を表明して生きるということには、困難が予測されます。しかし、
聖書に導かれて洗礼を受け、やがて終末の時、それはイエス・キリ
ストがもう一度こられる時ですが、その時に称賛と光栄とをもって
迎えられること、そのことが保証されていることを思うと、「言葉
では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(1:8)
神の言たるイエス・キリストは、十字架と復活とを通して、困難に
はるかに勝る終末の救いの喜びを与えてくださいました。聖書はそ
の喜びの証であり、聖書に導かれて洗礼を受ける者は、同じくその
喜びに与るのです。
が、10節以降、この喜びをもたらす神の言たるイエス・キリスト
については、新約聖書のみならず、すでに旧約聖書に記された預言
者たちが、キリストの苦難とそれに続く栄光について、つまり十字
架と復活について、しかも、キリストがだれをさすのか、そしてそ
のことがいつなのかといった細かい点に至るまで、詳しく記してい
ました。どうしてそのようなことが可能だったのでしょうか。それ
は神の言がキリストとして受肉されるはるか以前においても、キリ
ストの霊が、預言者たちに、この受肉の出来事を知らせたからです。
キリストの出来事は、神によって予め計画されたことだったのです。
先ほども触れたヨハネ1:1〜にあるごとく、キリストは、神の言そ
のものとして、受肉されるよりはるか以前からいらっしゃいました。
天上においては、天地創造の以前から、神と共におられました。旧
約聖書の時代には、地上に現れられることはありませんでしたが、
霊という形で預言者たちのことばを指導されました。時満ちて、受
肉され、救いの業を成就されました。今は天に帰られて、天におら
れます。が、やがて、イエス・キリストがもう一度来られる時、す
なわち本当の終末が来るとき、神は神の霊を、救いを直接私たちに
与えてくださるでしょう。しかしそれまでの間は、主イエス・キリ
ストを指し示す聖書によって、私たちは救いに導かれます。わから
ないことがあるかもしれません。が、それまでの間、キリストは聖
霊を教会にお遣わしになっておられますから、(ヨハネ14:28)聖霊の
導きにおいて、教会でみ言葉が説き明かされるとき、神の言たるイ
エス・キリストが明らかとされます。救いに至るため、教会での聖書
研究が必須です。(後略)
(2008/10/12 三宅宣幸牧師)
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