『教会の拠るべき唯一の正典』
(日本基督教団信仰告白講解説教 4)
主たる聖書テキスト: マタイによる福音書 16章13〜21節
(前略) そもそもイエス・キリストは、ことばと業とをもって神の
国を現されました。神の国のたとえ話を語られ、実際にザアカイを
招き、重い皮膚病の人を癒して、神の国を示して見せられました。
そして、その神の国実現のためにもっとも障害となっていた罪の贖
いのために十字架に架かり、そして罪に勝利されて復活され、神の
国の救いを実現されました。それゆえ、イエス・キリストご自身が
この世にいらっしゃった時は、正典という言葉はなかったとしても、
イエス・キリストご自身が正典そのものであられたと言えるでしょ
う。十二弟子の場合には、イエス・キリストご自身から正しい教え
を教えられたのです。
次の世代はどうでしょうか。イエス・キリストはもう地上にはお
られませんが、使徒たちの宣教活動を通し、使徒たちの証を通して
人々はイエス・キリストに出会い、救われました。使徒たちの「自
分はキリストに出会って、こうだったよ、ああだったよ‥」という
証が、正しい教えを伝え、正典として役割を果たしてたのです。
そして第三世代。直接にイエス・キリストに出会った使徒たちも
死に絶えてしまって、証も聞けない中で、使徒たちがキリストを証
して書き残したもの、これが正典となります。第三世代になって初
めて、書かれた正典が登場します。
その書かれた正典が受け継がれて、そして、教会の権威が確立した
時に編集され、範囲が定められたのが、新約正典27巻であるという
わけです。
ゆえに、新約正典の正典たる権威は、イエス・キリストの教えを正
しく伝えている、というところにあるのです。
私たちは、十二弟子からはもちろんのこと、使徒たちの時代から
も遠く離れてしまいました。しかし、正典としての聖書を受け継い
でいるがゆえに、聖書を通して、聖霊の導きによってそれが読まれ
るとき、イエス・キリストがここにおられるかのように、出会い、
正しい教えを教えられることができるのです。
第二に、聖書が正典であることを受け容れることによって、私た
ちは誤った道へ落ちることから守られます。
イエス・キリストの時代は、イエス・キリストご自身が正典として、
間違いを退け、間違いから守ってくださいました。
本日の福音書は、ペトロがイエス・キリストに対してすばらしい信
仰告白をするところです。ペトロは正典としてのイエスから正しい
教えを受け取りました。ところが、ペトロはその直後、サタンに囚
われ、イエスに受難を思いとどまるよう説得を始めるのです。間違っ
た教えに引きずり込まれてしまったのです。するとすぐにイエス・
キリストご自身が「サタンよ、引き下がれ。」とお叱りになられ、
ペトロを正し、ペトロが間違った道に行くことから守ってください
ました。正典たるイエスは、間違いを否定することによって、従う
者を間違いから守ってくださったのです。
使徒たちの活動は、正典たるイエスの証を抱えて宣教活動に従事
することと共に、キリストの教えから外れた者をたたく活動でした。
たとえば使徒言行録パウロは、ガラテヤの教会にキリストを証し、
正しい教えを伝えました。にもかかわらず、ガラテヤの教会の人々
は、パウロの後やってきた偽教師に唆されて正しい教えから外れ、
キリストの福音以外に律法を守ることを導入しようとしたのです。
使徒はガラテヤの教会の人々をたたきました。福音のみに戻るよう
説得しました。それが正典たる証を抱えた使徒のもう一つの務めだっ
たからです。使徒パウロの両面の働きは、ガラテヤの信徒への手紙
という文書の形でも残されています。(中略)
第三世代以降、私たちの世代に至るまで、イエス・キリストご自
身のように、イエス・キリストの証を抱えた使徒のように、正典と
しての役割を担って直接に私たちを叱り、たたいてくれる人はいま
せん。しかし、聖書があります。聖書が聖霊の導きをもって解き明
かされるとき、すなわち礼拝のみ言葉の取次ぎにおいて、正しい教
えが示されると同時に、間違いがたたかれるのです。
私たちが正しい教えに立っているかどうか、聖書は私たちを厳し
く糾弾することがあります。その糾弾に出会ったとき、私たちが聖
書を正典として受け止めているということは、それを正にイエス・
キリストからペトロになされた叱責、そしてその叱責によって私た
ちを間違った教えからから守ってくれる主のみ業として受け止める
ということであります。(後略)
(2008/10/05 三宅宣幸牧師)
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