『旧新約聖書は神の霊感によりて成り』
(日本基督教団信仰告白講解説教 2)
主たる聖書テキスト: コリントの信徒への手紙一 2章6〜16節
(前略)聖書が神の霊感において記されたことを強調し、そのこと
を教会の信仰告白として定着させたのは、宗教改革者のカルヴァン
です。なぜカルヴァンが「霊感説」と言われる教えを強く打ち出し
たのか、少しく宗教改革の歴史にふれてまいりましょう。
宗教改革の三原理とは何でしょうか。(1)信仰のみ、(2)聖書のみ、
(3)万人司祭です。この三原理は、もちろん聖書に根拠があるのです
が、宗教改革において改革者が改めて確認し、後のプロテスタント
教会が意識的に大切に守ってきた原理です。この三つの中で福音の
根幹に最も係わるのは、「信仰のみ」です。
(中略)ルターの問題提起は、そもそも罪のゆるしをいただくため
には、悔い改めがどうしてもなければならないのではないか、とい
うものでした。しかし、その後ルターは1518年のハイデルベルクで
の討論、1519年のライプツィッヒでの討論を経て、立場を明確にし
てきました。そもそも罪のゆるしが教会によってなされる(宣言され
る)ということ、人間の業が教会に認められることによって罪のゆる
しがなされるということがありえないことなのだ。罪のゆるしは十
字架の救いの恵み、恩恵のみによる、人間の側から言えば、業では
なく信仰のみによるということをはっきりと主張したのです。
「信仰のみ」ということは、一人一人の信仰心、神を求める思い
のみが大切だ、という意味では全くありません。何らかの業をなし
て教会それを認めてもらって、罪のゆるしのお墨付きをいただくと
いうことではなくて、十字架の恵みによってのみ、それを信じて受
け入れることによってのみ、罪からの救いに与る、ゆえに業ではな
くて信仰のみなのです。信仰は業に対抗する何らかの手立てを意味
するのではありません。救いの主役はあくまでも神だ、ということ
なのです。ですから宗教改革の第一原理は、「信仰のみ」と表現さ
れていますが、「恩恵のみ(Sola Gratia)」という意味なのです。こ
の宗教改革の第一原理を正しく捉えたのが、カルヴァンでした。
この神の恩恵(神の救い)はどのようにして私たちに啓示されるの
でしょうか。それは、父祖の時代(アブラハムやモーセの時代)、あ
るいはイエス・キリストの時代と違って、私たちには、聖書のみ言
葉として啓示されます。それゆえ、聖書は神の言葉そのものなので
す。そして、聖書が神の言葉であると受け取ることこそ、私たちの
救いが私たちの業によってではなく、神からのみ来ることを受け入
れることとなるのです。
しかし、この本、聖書が、なぜ神の言葉そのものと言えるのでしょ
うか。カルヴァンはこの点について次のように言っています。(「キ
リスト教綱要」T編8章)聖書にも時代的制約はありますが、それで
も他の古典と比べて、より雄弁である、より由緒がある、より正確
である、より長い時間愛読されて来た、それゆえこれだけでもある
程度まで聖書が神の言葉である証明になるのだ。と自分で言ってお
いて、「やはり、それではだめだ。」と言うのです。聖書が神の言
葉である根拠は、人間の側の証明によってはなされない。神によっ
てなされねばならない。それは、聖霊の導きによって書かれたこと
だ、というわけです。
聖霊の導きによって書かれた、とはどういうことでしょうか。そ
れは昔の絵にあるように、天使が聖書を書いている人の手を動かし
たということなのでしょうか。そうではありません。本日の使徒書T
コリント2:6〜でパウロが正しく述べているように、そこには神の知
恵が書かれているということです。ゆえに人の知恵によっては理解
されえない。私たちが聖霊の導きによって読むとわかる。聖書とは
そういう本なのだ、ということです。
聖霊とは、そもそもイエス・キリストを証するために神がお遣わ
し下さったお方ですから、私たちが自分の力で、知恵でわかろうと
する努力を捨て、イエス・キリストによってなされた救いを指し示
す聖霊の導きに委ねたとき、み言葉を通して大きなみ業がなされる
ことでしょう。
「旧新約聖書は神の霊感によりて成り」との告白は、旧新約聖書
という本の性格について私たちが評価し、その正しい読み方につい
て議論しているかのように見えるかもしれませんが、そうではあり
ません。私たちが、聖書を神の言葉そのものとして受け入れますと
いう告白です。聖書を神の言葉として受け入れ、豊かな信仰生活を
歩んでいきましょう。
(2008/09/21 三宅宣幸牧師)
(ここに記しましたのは、あくまでも一部です。)
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