『我らに罪を犯す者を我らがゆるすごと
く、
我らの罪をもゆる
したまえ(問126)』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教58)
主たる聖書テキスト: 詩編 51編1〜11節
マタイによる福音書 18章21〜35節
(前略)講解説教の前回のみ言葉の取り次ぎで学んだように、そも
そも神は人間を大いなる祝福をもってお造りになられました。そし
て前回は、その祝福が食物を何不自由なく与えるという形で示され
た、与えられたことを学びました。しかしその祝福は、食物だけで
はなく、よい人間関係が与えられるという形でも示されていたので
す。最初の人アダムは食べ物には何不自由なく暮らしていましたが、
孤独でした。そこで主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼
にあう助ける者を造ろう。」(創世記2:18)と決心され、そしてその
「助ける者」として造られたのがもう一人の人エバだったのです。
そしてアダムとエバは一体となることによって、良き人間関係とい
う祝福を一身に味わうこととなりました。ちなみに「助ける者」と
訳されていることば(エゼル)は、協会訳聖書では「助け手」と訳さ
れており、旧約聖書の他の用例(詩編20:3など)では「主の助け」の
意味で用いられています。二人は神に助けていただいて、そして、
互いに支えあっていたのです。
ところが二人は神の声を聞かずに蛇の声に聞き、神を離れ、神の
助けを失ってしまいました。神の助けを失ってしまった彼らは、食
物を得ることに苦労するようになったばかりでなく、お互いに助け
る者でなくなってしまったのです。まず、取って食べるなと命じら
れた木から取って食べた責任をアダムはエバに転嫁します。(3:12)
責任の擦り合いです。二人は助け合う者では全くなくなり、この人
間関係の破綻は子どもたちに受け継がれ増幅されていきます。二人
の間に生まれたカインとアベルの兄弟においても本当は助ける者同
士として助け合うべきでした。ところがカインは。アベルの供え物
が神に顧みられたにもかかわらず自分の供え物が顧みられなかった
その腹いせに、弟アベルを殺してしまいました。人間関係の破綻は
殺人にまで発展してしまいました。そして、カインの子孫です。エ
ノク、イラド、メフヤエル、メトシャエル、レメクと五代後までいっ
たとき、レメクは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す、
そして七十七倍(無制限)に復讐を行う復讐の鬼と化してしまったの
です。もはや、お互いに助けることをせず、やられたらやられた以
上にやり返す、そんな世の中になってしまいました。アダムの罪が
レメクの呪いとなってこの世を覆ったのです。
が、神はそのような世界を決して放置してこられたわけではあり
ません。旧約聖書の時代も、預言者たちの口を通して、神を助けと
して互に助け合うよう呼びかけられましたが、イエス・キリストの
時となって、七の七十倍つまり無制限のゆるしをもって、そしてイ
エスが十字架上で実際に復讐をすべて身に受けられて死んでいくこ
とを通して、レメクの呪いを破棄されたのです。すなわち、だれで
もキリストにあるならば、キリストによる助けをいただくならば、
復讐の関係ではなく、互に助け合う、そういう関係、祝福に満ちた
関係が回復できるはずなのであります。
しかし、この男は王から、すなわち神から莫大な借金のゆるしと
いう助けを与えられながら、仲間をゆるす、すなわち仲間を助ける
ことができなかったのでしょうか。
私たちは、この男の姿の中に、日本人クリスチャンの弱さを見る
のです。日本人は、キリスト教に無関心な人はもちろんのこと、キ
リスト教を受け容れる方でも洗礼を受けることに抵抗感を覚える方
が多くいらっしゃいます。もちろんそれは日本におけるキリスト教
の地位に大いに関係があることは確かです。自分がクリスチャンで
あることを公に明らかにするとこの社会で不利になることが確かに
あるかもしれません。しかし、洗礼とは、私たちの側から言えば、
私たちが自らの主体をかけて神のふところにとびこむことでありま
すから、それをすることにより、神の助けを、イエス・キリストに
よる助けを確かにいただくことができるのです。「心だけで信じる」
という状態は助けをいただいたことにならないのです。神のみふと
ころにとびこむと、それまであいまいにしてきた自分の罪も赤裸々
に見えてきます。辛いかもしれません。しかし、その時初めて、神
のゆるしの恵みが本当に確かなものとして与えられるのではないで
しょうか。
この物語のこの男は、王(神)のみふところにとびこんでいないの
です。(後略)
(2008/08/24 三宅宣幸牧師)
(ここに記しましたのは、一部にすぎません。)
※このページに関するご意見・ご質問は三宅牧師までお寄せ下さい。miyake@aksnet.ne.jp