2008年08月17日

『神の声を聞く

主たる聖書テキスト: サムエル記上 3章1〜14節
          マタイによる福音書 18章1〜5節


 信仰は、弱さを乗り越えるものを与えてくれます。信仰とは、た
とえば病気の時に祈って病気を治してもらうことではありません。
祈って、自分がどう振る舞えば良いか、神の言葉を聞き取ることで
す。そうして病気でありながらも慰めを与えられ、勇気を与えられ、
平安を与えられて困難を乗り越えることができるようになることで
す。そういう意味で、信仰とは、神の声を聞くことです。

 神の声は、祈りによって聞かれます。私たちは、切実な問題に苦
しんだときは、必死で祈ります。しかし、問題が切実である時にか
ぎって、かえって神の答えが聞こえなくなったように感じられるこ
とが、あります。神の声は、普通の音や、人間の声のように聞こえ
るわけではないからです。

 私たちは、大事な決断をしなければならない時、神に祈りつつ、
不安な気持ちのままで決めて行きます。将来のことが分からなくて
も、神の声を聞いて、それに従って行けば、危険や困難を恐れる必
要はありません。そういう信仰の歩みを…=…生き方を、したいと
思い、留学後、6年目に、私は神学校に行くことにしました。毎日い
やでも聖書を読み、聞きたくないときでも、神さまの声が聞けると
思ったのです。

 でも神学校に行って、すぐに神の声が聞こえて来るわけでは、あ
りませんでした。難しい神学用語が聞こえて来るばかりでした。
 そんな中で、韓国にいる大好きな祖母が病気になりました。そん
な時にこそ、祈って、神の声を聞かなければなりません。けれども、
神学校は勉強で忙しく、祈る暇もないような気持にさせられます。
とりあえず学校を休んで、看病しに韓国に行きました。

 しかし祖母の前に出て、本当に自分は無力であることを痛切に感
じました。祖母のためになんとかしたいのに、私の力では何にも出
来なかったからです。ただ自分がもどかしくて、毎日泣きながら祈
るしか出来ませんでした。
 韓国に帰った最初の日曜日の礼拝説教に、神の声を聞いた思いが、
いたしました。
 「親に対して、あるいは子どもに対して、何かを与えたいと思っ
ても、自分が持っていないものは、与えることが出来ない。しかし
私たちの父なる神さまは、無くてあげれない、無くてできないこと
は、ない」という説教を聞いて、涙が止まらなかったのです。

 祖母に対しては、私は何も出来なくても、神さまがやってくださ
る。祖母に必要なものを、全て与えてくださると分かって、神さま
にお任せすることが出来ました。それで、日本に戻って、神学校の
勉強を続けることも出来たのです。

 旧約聖書のエリの時代は「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示
されることもまれであった」と、書かれています。今の時代はどう
でしょうか。神はいつの時代でも語っておられるのに、私たちの心
が鈍く、かたくなになって聞くことが出来ないということはないで
しょうか。

 私のある親戚が、エリに似ている気がしました。自分の価値観を
変えて新しくしてくれるのが信仰なのに、自分の価値観を取り払う
ことが出来ないのです。神を信じたと言っても、自分の価値観の中
で信じたつもりになっているのです。そのために自分を変えること
が出来ず、「キリスト教は私の知っていることしか教えない」と言っ
て、結局は教会生活が続きませんでした。

 しかしイエスさまは、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子
どものようにならなければ、決して天国に入ることはできない」と
おっしゃいます。
 子供は、神の御前に出る時、自分の地位や名誉、権威など、一切
関係ありません。私も、自分が無力であることをつくづく感じまし
た。捨てなければならない程の物は、持っていないような思いだっ
たので、神の御前に全てをさらけ出すことが出来ました。だから、
あの時は神の御声を聞けたのです。

 日本の教会は、神の言葉が臨むことが少ない教会ではなく、少年
サムエルのような人でいっぱいになって、いつも、神さまがその人
の名前を呼び、語りかけてくださる。また、その御声を聞いて、そ
の御言葉を悟って、その通りに生きる恵みにあずかる事が出来ます
ことを願います。

(2008/08/17 金 園播師)

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