『天にましますわれらの主よ(問
121〜122)』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教53)
主たる聖書テキスト: マタイによる福音書 7章7〜12節
(前略)奴隷が主人に絶対的に仕えることが求められるごとく、神
と主従関係にある人間にも、同じことが求められます。
私たちはこんな主従関係はいやだ、と思うかもしれません。しか
し、本来、一神教では、人間は被造物に過ぎず、その被造物として
のあり方を超えることはゆるされないのです。神と人間との間には、
超えることのできない大きな溝があります。人間に求められること
は、ひたすら従うこと、これが、本来、一神教において人間に求め
られる唯一の徳です。
作品が作者を超えることが決してないように、被造物たる人間が、
創造主なる神を超えることは決してありません。近づくことも、真
似ることもできません。本日の旧約書エレミヤ23:23にあるごとく、
神はそもそも人間の遠くにあるお方です。主の祈りの呼びかけの中
の「天にまします」ということばは、この遠い神を覚えることばで
す。そもそもは、被造物にとって神は畏れ多い存在であることを忘
れてはなりません。
以上は、一神教の基本的な考え方なのですが、実は、普通の一神
教を超えたメッセージがすでに旧約聖書の時代から示されてきまし
た。それは、神が人間を創造された時の「我々にかたどり、我々に
似せて、人を造ろう。」(創世記1:26)とのことばに始まります。神
は創造主にいまして、しかも被造物に過ぎない人間を対等の相手と
して、神に似た者、神の子としたい、親子関係を結びたいと願って
おられたのです。
神はそう願われて、ともかく人を神の形に創造されました。が、
楽園においてさえもうすでに罪を犯すことによってその歴史を開始
した人間は、神との間に、対等の関係、親子関係を結ぶことは到底
できませんでした。まず、被造物として、とにもかくにも神に従う
ことのみが求められてきたのです。親子関係を結べば、人は神の子
と呼ばれるはずなのですが、旧約聖書に「神の子」ということばは
僅かしか出てきません。しかも、その僅かの用例のほとんどが、天
使を指す表現です。ただ一箇所だけ、ホセア書2:1において、将来、
イスラエルの民が「生ける神の子ら」と呼ばれるだろうと記されて
いるだけです。人が神の子と呼ばれることは、将来の希望としてだ
け存在していたのです。
その、将来の希望としてはあるが、現実にはない、人が神の子と
される出来事が、どのようにしたら起こり得るのでしょうか。それ
には、身分の転換(変換)が必要です。すなわち、人は神に対しては、
被造物としていわば奴隷の身分でしかないのですが、それが、神と
等しい身分に引き上げられることが必要です。しかし、どうしてそ
のようなことが起こりえましょうか。その、起こりえない出来事を、
イエス・キリストは、私たちのためにしてくださったのです。すな
わち、フィリピの信徒への手紙2:6〜にあるごとく、キリストは神の
身分でありながら、僕の身分(僕は奴隷という語の別訳です)となり、
人間に、結婚を申し込むようにして、「愛しているよ」と声をかけ、
声をかけるばかりでなく、その身分の変換の最大の障害となってい
る罪を、ご自身が十字架にかかられることによって贖い、私たちを
身請けしてくださったのです。この信じられない出来事において、
私たちは神の子としての身分を与えられました。それゆえ、イエス・
キリストと全く同じように、神を「アッバ、父よ」とお呼びして、
神に親の愛を期待できるのです。
この大きな恵みを、パウロはどのように表現しているか、二箇所
から引用してみましょう。最初にガラテヤの信徒への手紙4:6-7です。
「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子
の霊を私たちの心に送ってくださった事実からわかります。ですか
ら、あなたはもはや奴隷ではなく子です。こであれば、神によって
建てられた相続人でもあるのです。」
もう一箇所はローマの信徒への手紙8:15-17です。「あなたがたは、
人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受
けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼
ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わ
たしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます、もし子供であ
れば、相続人でもあります。」
感謝と、そして畏れとをもって「天にまします、我らの『父』よ」
と祈りましょう。
(2008/07/13 三宅宣幸牧師)
(ここに記しましたのは、あくまでも一部です。)
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