『盗むな(問110〜111)』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教49)
主たる聖書テキスト: マタイによる福音書 5章38〜42節など
今日は十戒の第七戒「盗んではならない」がテーマです。
くりかえしになりますが、十戒のここまでの流れを振り返ってみ
ましょう。第一戒から第四戒までが神に関する戒めでした。つまり、
神の権威を貶めない、神を神として崇めるように、との戒めでした。
第五戒から、人間関係に係わる戒めに入って参ります。その第一が
親子関係、すなわち人間関係の基本のあり方を定めた戒めでした。
第六戒は、「殺してはならない」でして、神を畏れる者が、人間同
士で絶対にしてはならないことが定められており、そして、第七戒
では具体的な人間関係の基本としての夫婦関係が取り上げられ、い
よいよ第八戒から個々様々な人間関係に係わる戒めが取り上げられ
る、ということで、今、私たちはその第八戒の前におります。
で、その個々様々な人間関係に係わる戒めの第一が、「盗んでは
ならない。」です。窃盗は社会秩序を壊す犯罪の第一歩、入り口で
すから、確かに人間関係を壊す危険な行為であることに間違いはあ
りません。しかし、これが人間関係を健全に保つための戒めの第一
と言われると、違和感を感じられる方もいらっしゃるのではないで
しょうか。つまり、泥棒さえしなければ人間関係はうまくいくのか、
ということです。もちろん泥棒はいけませんが、友情や信頼に支え
られて健全な人間関係を築くためには、泥棒をしないだけでなく、
相互の人格の尊重が最も大切なのではないでしょうか。
なぜ、第八戒は盗みの禁止なのか? この長年に亘って抱きつづ
けられてきた疑問に対して、明快な答を出したのが、ドイツの旧約
学者アルトでした。(1953年)アルトは、日本語では「盗む」と訳さ
れている、ヘブライ語の原語「ガーナブ」に注目します。日本語で
「盗む」というと、「こっそり取る」の意味ですが、取る対象(もの)
は、あくまでもモノです。盗み見とか盗み聞きという表現もありま
すので、このモノには形のないモノも含まれますが、やはりあくま
でもモノです。英語のstealについても、ギリシャ語のκλεπτω
(クレブトー)についてもほぼ同じでして、こっそり取られるものは、
あくまでもモノです。ところが、ヘブライ語の「ガーナブ」は違い
ます。こっそり取ることを指すことばであることには変わりないの
ですが、取る(取られる)ものは、モノばかりでなく、人間であった
り、人の心であったりするのです。ゆえにこのことば「ガーナブ」
は、場合によっては、日本語で言うと、「誘拐する」とか「だます」
という意味にもなるのです。
アルトは、「ガーナブ」の「誘拐する」という意味に注目しまし
て、(実際、出エジプト記21:16に「誘拐する」という意味での用例が
あります。)第八戒は、日本語で言えば「誘拐してはならない。」と
いう意味だ、と主張しました。同じく旧約学者のマルティン・ノート
も「第八戒は、人を盗むこと(誘拐)が考えられている。」と断じて
います。
ことばというものは不思議なものでして、普段そのことばを使って
生活している人は、そのことばを聞くと、頭に中にあるイメージが
湧くのです。普段日本語を使って生活している人は「盗む」というこ
とばを聞いた時に、ほとんど泥棒のことを思います。英語を使って
生活している人がstealということばを聞いた時も、ギリシャ語を
使って生活している人がκλεπτω(クレブトー)という語を聞い
た時もほぼ同じでしょう。ところが、ヘブライ語を使って生活して
いる人が、「ガーナブ」という語を聞いた時、その人は泥棒のこと
ばかりでなく誘拐犯のことも、あるいは人をだます人のことも、つ
まりこっそり取っていく人みんなのことを思い起こすのです。
もしも、第八戒が、盗む対象として、人をも、いや人を中心とし
て考えているとしたら、第八戒は、隣人の自由を奪うことを禁止す
る戒め、人権保護、人権侵害を禁止する戒めということになります。
神はそもそも最初の人間を、自分で決めて自分で決めたとおりに
行動する、自由な人としてお造りになられました。神が人間をその
ようにお造りになられたのですから、人間は、人間同士で関係を結
ぶ場合、この自由をお互いに尊重しあわねばなりません。人格の尊
重です。人格を尊重しあう時、協力して何をするにしても、そこに
友情や信頼も培われていくのではないでしょうか。第八戒は、様々
な人間関係の基礎を築く人格の尊重を目指す戒めだったのです。(後略)
(2008/06/15 三宅宣幸牧師)
(ここに記しましたのはあくまでも一部です。説教録音CDにて全体をお聞きください。)
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