『かたちではなく言葉で(問
96〜98)』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教43)
主たる聖書テキスト: 申命記 4章15〜31節
ヨハネによる福音書 4章16〜26節
(前略)
さて、律法を第三用法として見たとき、作像の禁止の戒めは、外的
な作像の禁止、そして、像をつくって拝みたがる我々の罪性の暴露
に止まりませんで、キリストに贖われた恵みに与る私たちが、どの
ように礼拝をしたらよいかを指し示す導き手ともなります。
それでは第二戒が指し示すまことの礼拝とは何でしょうか。それ
は、本日の旧約書、申命記4:15にあるとおり、神は何かの形をとる
こともなく、み言葉をもって自らをお示しになられたのですから、
「み言葉に聞く」礼拝を守るということです。これが第一です。
そして、第二に、神はみ言葉をもって私たちを生かしてくださるの
ですから、私たちは、自分の宗教心を満足させるためではなく、私
たちがみ言葉に生きることそのものをお献げする礼拝を守ることで
す。これが、本日の福音書ヨハネ4:24で言う「霊と真理をもって守
る礼拝」の中身です。
主イエス・キリストご自身が、このような完全な礼拝を守られま
した。すなわち、神のみ言葉に聞き、全き従順をもってそのみ言葉
に従い、ご自身をすべて献げて、十字架の贖いとなられました。私
たち自身は、どうでしょうか。まことの礼拝を守ることのできない
罪人です。しかし、主イエス・キリストは、み言葉そのものとして
この世に遣わされ、私たちの罪を贖い、私たちにイエスに倣ってま
ことの礼拝を守ることをゆるしてくださいました。それゆえ、私た
ちは、み言葉と聖礼典とを通して、キリストの贖いの業に与り、ま
ことの礼拝を守らせていただき、主イエスに倣って献身の思いを新
たにするのです。
まことの礼拝に像の入り込む余地はありません。それゆえ、ユダ
ヤ教のシナゴグ(礼拝堂)には何の像もありません。キリスト教の教
会も最初の500年は、弾圧の下でしたが、像のことはほとんど論議さ
れませんでした。そもそも像がなかったのでしょう。しかし、多分
民間信仰に由来するのでしょう。聖画像が教会に持ち込まれ、いわ
ゆる聖画像崇敬が始まりました。今日でも、カトリック教会と東方
教会とは、それぞれ違った形でではありますが、聖画像崇敬を認め、
行っています。聖画像崇敬を一切認めないプロテスタント教会と著
しい対比を示しています。私たちは、プロテスタント教会に属する
者として、作像問題についての正しい認識と行動とが求められるの
ではないでしょうか。
カトリック教会の公式見解はこうです。まず、像に対する崇敬は、
神に対する礼拝とは異なり、崇敬は尊敬を中心にした態度であって、
第二戒違反にはならないというわけです。しかし、聖人像やマリア
像についてはそれで言い逃れられるでしょうが、よくあるキリスト
像についてはどうなのでしょうか。これには、トマス・アクィナス
による有名な弁証があります。キリストは、神であられたが、人と
なられたのであって、つまり人の目に見える形となられたのだから、
像にしていい。そして、拝んだとしても、像そのものを拝むのでは
なく、形をとられたキリストの背後におわします、目に見えない神
を拝むのであって、やはり第二戒違反にはならないというのですが、
どうでしょうか。それなりの理屈は通っているのですが、像を前に
して礼拝したとき、人間の宗教心を満足させることで終わってしま
うということは、すでに「金の子牛事件」が明らかにしていること
ではないでしょうか。そして、人間はそのような罪人であるからこ
そ第二戒があるのではないのでしょうか。
神のみ言葉に聞き、従うことに集中する宗教改革者たちは、この
聖画像崇敬にこぞって反対しました。しかし、聖画像をどう扱うか
については、カールシュタットのように本当に破壊してしまう者か
ら、ルターのように教育的価値は認める者まで様々でした。暴力で
壊してしまうのも別の罪の業と言わざるを得ませんが、ルターのよ
うにそのままにして教育的価値を認めるというのも、人間の罪に対
する認識が甘いと言えるのではないでしょうか。
カルヴァンは、聖画像崇敬の問題点を、神を畏れるべきことと、
一方人間の罪の現実として正しく捉え、それがまさしく偶像礼拝そ
のものに他ならない、と正しく批判しました。私たちは、神を礼拝
する者として、キリストの贖いに与った者であれば尚更、み言葉を
聞き、献身の思いを新たにする礼拝の核心から、ぶれてはならない
のではないでしょうか。
(2008/04/27 三宅宣幸牧師)
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