『神の集めたまいし群れ』
主たる聖書テキスト: ヨハネによる福音書 17章14〜26節
教会は長い歴史をもっています。私たちが仲間を集め、お金を募っ
て建物を建て、「ここで礼拝しましょう。」と言って教会が始まる
わけではありません。教会は、組織も、建物もイエス・キリストに
始まります。イエス・キリストから宣教の使命を与えられた使徒た
ちによってつくられました。そして親教会が子教会を生み、先輩牧
師から按手を受けた牧師がそれを守ることによって、2000年の歴史
が刻まれ、今ここに元住吉教会に至るのです。親教会たる教団から
認可されない集会が教会とは言えないのはもちろんのこと、按手を
受けていない人間が、あるいは牧師の資格を失った人間が、礼拝風
のものを主催してみても、それはキリスト教風の集会ではあっても、
教会とはなりえません。
よく、教会は「神の集めたまいし群れ」であると言われます。教
会が「神の集めたまいし群れ」であると言うとき、自分たちが集まっ
てお金を出し合って「教会」をつくったのだけれど、やはり神の導
きは感じるし、気持ちとしては「神の集めたまいし群れ」だと思う
かもしれませんが、そうではありません。教会は、イエス・キリス
トがつくられた教会の子どもの子どもの‥として生まれ、イエス・
キリストから任命された使徒から順に按手を受けてきた教師に守ら
れてきたがゆえに、そしてその様にしてできた教会だけが、文字通
り「神の集めたまいし群れ」なのです。
ですから、教会において、何をさておいても、言い換えればいの
ちをかけてでも守らねばならないものは、組織の和でも、建物でも
ありません。「伝統」です。主イエス・キリストの十字架による贖
いと復活の恵みを、み言葉の宣教と聖礼典とを通して伝えつづけ、
そしてその恵みからそれた者を戒規をもって正す、この三つだけは
決して失ってはならないのです。
元住吉教会も確かに伝統を受け継いでいます。教会を開拓した三
宅朝吉牧師は、れっきとした日本基督教団の教師でした。そして、
元住吉教会は、日本基督教団の教会(伝道所)としてはじめてその歩
みをスタートできたのです。
が、その伝統が正しく認識され、守られてきたか、私たちはもう
一度問い直さねばなりません。私たちが、その伝統をもう一度、新
たな思いで認識し、守るために、プロテスタント教会の原点、「ハ
イデルベルク信仰問答の学びを主日礼拝における連続講解説教とし
て続けていますが、今日は、創立記念日礼拝にあたり、元住吉教会
の歴史を振り返りつつ、歴史を踏まえて、今私たちに与えられた課
題を考えていきたいと思います。(中略)
教会は会堂建築後直ちに、せっかく専用の礼拝堂を与えられたの
ですから、礼拝の整えに全力集中すべきでした。しかし、現実には、
教会は広くなった教会に人を集める方に走りました。会堂がない時
代にしていたことと変わりませんでした。そして、礼拝そのものの
整え、説教と並ぶ聖礼典、特に聖餐をきちんと守ること、そのため
には礼拝を司る教師の資格を厳しく問うこと、また、礼拝を秩序正
しく守るために、秩序を破る者を戒めをもって正すこと、こういっ
た教会が絶対に守らねばならない問題は後回しにされていきました。
しかも教会堂の建物はあるのですから、教会を自分たちに都合のい
い親睦友好ためだけの場、安価で、ただで借りられる貸し会場と考
える人が出てきても不思議ではありません。
私たちは教会堂を、教会の伝統を守るために、礼拝を守るためだ
けにお献げしたのです。宗教法人として、礼拝を守るためならばと
いうことで課税されないのです。私たちはこの建物を用いて正しい
礼拝を守る義務を、神に対してはもちろん、この社会に対してさえ
負っています。私たちは、教会において何が絶対に守らねばならな
いことであり、何がどうでもいいことなのか、きちんと見分けねば
なりません。
今からでも遅くありません。私たちは、礼拝を、説教、聖礼典、
戒規を教会のいのち、もっとも大切なものとする教会として再出発
しなければなりません。
ヨハネ17:14〜26においては、イエス・キリストが最初に教会をつ
くられたその目的は、天において弟子たちと、弟子たちに始まる教
会のメンバーとが、完全に一つになることであると、はっきりと告
げられているところです。教会の目的はこの地上で仲良しグループ
をつくることではありません。天においてイエス・キリストと一つ
になる、顔と顔とを見合わせて何ら隔てなく礼拝を守る、その準備
なのです。天を目指して礼拝を守りつづけること、これこそ教会の
使命にして義務です。
(2008/04/20 三宅宣幸牧師)
※このページに関するご意見・ご質問は三宅牧師までお寄せ下さい。miyake@aksnet.ne.jp