2008年03月16日

『信・愛・望

主たる聖書テキスト: テサロニケの信徒への手紙一 1章2〜3節


 Tテサロニケ1:3には、信仰・愛・希望という三徳目が併記されて
います。同じような記事は、新約には数か所に認められますから、
聖書では信・愛・望は、信仰者の歩みの基本態を構成するものとし
て重んじられているということができます。
     *         *
 信仰には、「(信仰の)働き」という文言が付記されています。信
仰に伴う「わざ」という意味です。別様にいえば、それは、信仰が
ないところではもたらされない「わざ」ということであります。
 その「わざ」の意味を、この手紙の内容に沿って考えますと、そ
れは、第一には礼拝であることがわかります。信仰者の歩みの基本
態を構成するナンバーワンは、キリストを拝跪することなのです。
 この点がしっかりしていないと、多様な奉仕へと歩みだし、また
そこへと押し出されるということは起こってきません。つまり、キ
リストに仕えるという仕方において人に仕え、キリストを指し示し、
キリストを証しするキリスト教徒の奉仕は、主を拝むということを
抜きにしていきなり起こされてくることではないのです。
          *
 愛には「労苦」という言葉がついています。「(愛の)労苦」とは、
これもパウロのこの字の使い方に照らしてみますと、その意味は、
伝道に伴う労苦を指しているのがわかります。
 伝道は証しのわざであり、本質的に、愛のわざなのですが、それ
には「労苦」が伴うというのであります。そこで、伝道にはなぜ「労苦」
が付きものなのかということが問われることとなります。
 その理由は幾つもあるでしょう。しかし、根本的には、福音が「十
字架」を内容としているというところにあります。人間には、「十
字架」は躓きとなり、「十字架」は人知にとって愚かしく見えるの
です。そこにこそ救いがあるという「十字架」の逆説的な意味は、内
なる魂が聖霊によって深く啓発されるということ抜きにしては明ら
かにはなりません。

 パウロはダマスコで復活の主に出会い、回心しましたが、人は、
どこでそれを体験するのでしょうか。
 そこに教会があれば、そこはダマスコであるといい得るでしょう。
教会があるということは、そこで礼拝がなされているということで
あり、礼拝が献げられているということは、み言葉をとおしてキリ
ストに出会う場がそこに備えられているということであるからであ
ります。
 十字架は躓きだと言って、これを軽視することなく、ここにのみ
救いがあることを力づよく証しし続けたいと思います。そのための
労苦をしっかり担って進みたく願うのであります。

          *

 最後に、「望みの忍耐」とあります。パウロは、これによって、
主イエスの来臨・終末への希望が信仰者の世にある歩みを特徴づけ
るということ、また、その希望が、われわれのこの世における歩み
を忍耐づよいものとすると述べるのです。
 「私たちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリス
トのこられるのを待ち望んでいる」とのみ言葉を、わたしたちは知っ
ています。この「望み」がキリスト教徒の基本態を特徴づけるもの
であることを深く覚えたいと願います。それは、教会をして、信仰
者をして、「愛の労苦」を「忍耐」をもって担いつづけることを得
しめるのは、勝利の主に対するこの「望み」以外にはないからであり
ます。

(2008/03/16 山内 眞牧師)

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