2008年01月20日

『信仰によってのみ(問59〜61)
(ハイデルベルク信仰問答講解説教31)

主たる聖書テキスト: ハバクク書 2章1〜4節
                    ローマの信徒への手紙 1章16〜17節


 今日は「信仰のみ」がテーマです。「信仰のみ」は宗教改革にお
いてスローガンの一つとなり、業による救いと厳しく対立されられ
たため、「信仰のみ」とは業が必要ないという意味だ、非常に楽な、
安易な道だ、と受け取られてきた節がないでもありません。「信仰
のみ」は果たして安易な道なのか、「信仰のみ」の教理の本当の意
味を学びましょう。

 ところで「信仰のみ」の教理は、信仰によってのみ義と認められ
る、神に正しいと認められる、救われる、との意です。が、信仰を
もっている人がその信仰のゆえに救われる、との考えは既に旧約聖
書ハバクク書2:4に示されています。ハバククが、南ユダ王国におい
て、ヨシヤ王が死んだ後、王国が滅ぼされて民がバビロン捕囚に連
れて行かれるまで、その間に活動した預言者だとすると、ハバクク
は、ヨシヤ王の「申命記改革」に参加していたか、あるいは見、聞い
ていたのではないでしょうか。しかし、ヨシヤ王の死後、国は元の
木阿弥になってしまいました。ヨシヤ王の後を継いだ王達は、エジ
プトとバビロニアという両大国の間に挟まれて、あちらについたり
こちらについたり、神第一とするよりも大国の顔色を窺う国に国に
成り下がってしまいました。ハバククは、ユダが結局は滅びること
を見ていました。終わりの時、終わりの日が来るのです。しかし、
終わりの時が来たとしても、ヨシヤ王の申命記改革の時に示された
ように、神を第一とする者は生き残るのです。ハバククにとって信
仰とは、神を第一とする生き方をすることでした。

 ハバクク以後、ユダヤ教は神を第一とする生き方を模索し、律法
主義に行き着きました。神に逆らうことのないよう、日常生活の隅々
に至るまで、法の網を整えたのです。が、一旦そのような法の網が
出来てしまうと、神第一が貫かれ、神の前において正しいというこ
と(神の義)が全うされるためには、律法は完全に守られねばなりま
せん。律法違反が一つでもあってはなりません。もしあれば、たと
えどんなに小さなミスでも、厳罰が科せられることによって神の義
は全うされることとなります。そして、律法を一点一画に至るまで
完全に守ることの出来る人は一人もいません。その結果、律法が徹
底することによって、神の義は全うされるが、救われる者が一人も
いない、という皮肉な結果となってしまいました。

 パウロはこの行き詰まりに気づいていたことでしょう。(ローマ
3:10,20)そのパウロに思いもよらない仕方での救いの道が示された
のが、復活のイエスとの出会いでした。パウロは復活のイエスと出
会って、神が十字架上でイエスを罰せられたという事実に目を開か
されました。しかも、イエスが負われた罰はご自身の律法違反や罪
の罰ではありません。他の人々が、本来終末の審きの時有罪として
受けるべき罰を、イエスは受けてしまわれました。その結果、次の
ことが起こりました。イエスが十字架上で罰せられたことにより、
神の義は貫かれました。一方、有罪である我々が、終末の審きにお
いて無罪とされ、救われました。神の義が全うされ、しかも罪人が
救われるという奇跡が、キリストの贖いによって成し遂げられまし
た。ローマ1:16で、パウロはイエスが十字架上で罰せられたそのこ
とを福音と呼んでいます。福音は、神第一の生活をしようと志しつ
つ律法の呪縛に捕われてしまったユダヤ人にまず示され、そしてギ
リシア人をはじめとするすべての民に示されました。ゆえに、私た
ちは、福音を受け止めること、すなわち信仰によってしか救われま
せん。パウロが「正しい者は信仰によって生きる」と言うとき、信
仰とは、キリストの十字架をしっかりと受け止めることに他なりま
せん。

 「信仰のみ」の教理は、宗教改革の時「業においても」の教理に
対立するものとして主張されました。ハイデルベルク信仰問答でも
「功績ではなく」ということばが用いられているのは、その辺の歴史
的経過を反映しています。それゆえ、仏教で修行の方法を難行と易
行とに分け、出家する者には自ら修行して悟りに至ろうとする難行
の道が、一方一般庶民には、阿弥陀如来の慈悲にすがってただ念仏
すればいいという易行の道が開かれているように、「信仰のみ」は
二つの道のうちの一つ、易行の道にあたるかのようにうけとられて
きたことも事実です。しかし、「信仰のみ」は、「業においても」
と対なのではありません。あえて言えば「滅び」と対です。もとも
と罰せらるべき人間は、もがいてもだめで神の罰を受けて滅びるか、
信仰によってキリストの贖いに与り救われるか、二つに一つなので
す。

(2008/01/20 三宅宣幸牧師)

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