『永遠の命』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教30)
主たる聖書テキスト: ローマの信徒への手紙 5章15〜21節
私たち一人一人に与えられている命ですが、旧約聖書の考え方で
は、神からおのおのに与えられたものでした。創世記2章によると、
神は人を創造されたとき、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息
を吹き入れられた、人はこうして生きるものとなった(2:5)とありま
す。そして、神はその造られたアダムをエデンの園に置かれて、食
べ物を用意して、その命を守られました。園の中央には、善悪の知
識の木と並んで命の木がありました。この命の木から取って食べる
と、「永遠に生きる者となる」(同3:22)と記されていますので、神は
最初は人に永遠の命を与えようとしておられたのかもしれません。
ところが、人はエデンの園でのたった一つの禁令を守ることが出来
ず、罪を犯し、エデンの園から追放されてしまいました。そこで、
エデンの園からの追放後、人に寿命が与えられる、命が制限される
こととなります。しかし、神の祝福は完全に去ったわけではありま
せん。創世記5章に出ている神の系図を見ると、アダムからノアまで
10人の始祖たちは、一人を除いて700年、800年、900年と大変に長生
きをしています。神は長生きという形で祝福を与えつづけられまし
た。しかし、ノアの時代になると、「地上に人の悪が増し、常に悪
いことばかりを心に思い計る」(創世記6:5)ようになって、神は人の
一生を120年と設定されたのです。こうして、後の時代になると、死
とは罪の罰である、と明確に意識されるようになりました。
死ねば墓場に行きます。旧約聖書の考え方によれば、墓はシェオー
ル(陰府)と呼ばれ、神の祝福が及ばないところです。義なる人も
そうでない人も一緒くたにされます。死は恐怖の対象となってきま
す。
この事態に抗議の声をあげたのが、ヨブ記の著者、そして詩編49
編の著者でした。ヨブの場合、死にはしませんでしたが、神の前で
全く正しい人であったのに思いもかけない不幸に出会い、神が命の
与え主にして、正しい人には豊かな人生を与えるという形で祝福す
るとするなら、この事態はおかしいではないか、と抗議します。詩
編49編の著者(詩人)は、生きている間の祝福が、死ねば何の役にも
立たないという不条理に目を向けます。
しかし、ヨブや詩編49編の著者は、神がまことに正しい方で、そ
の正しさは死者の世界にも及ぶはずだ、という信仰に到達します。
そして、神が死者をも見捨てずに覚えてくださるとの信仰は、世界
の終末が意識されるにともなって、終末の時の審きを経て、神に正
しいと見なされた者は永遠の命を与えられるという信仰にたどり着
きました。しかし、この死者への祝福、永遠の命への希望は、旧約
聖書の時代には、まだ「そうあったらいい」という希望に過ぎませ
んでした。
さて、新約聖書の時代になっても、神は命の与え主にして、それ
ゆえ健康が祝福のしるし、それゆえ罪の罰の結果である死を恐れる
という考え方は、基本的には変わりません。それゆえ、イエスと出
会った病気の人は、罪(そしてその結果としての死)への恐れを抱い
ています。イエスがカファルナウムで出会った中風の人に、「子よ、
あなたの罪は赦された。」(マルコ2:5)と言われたのはそれゆえです。
そして、死はもう既に神に見捨てられた状態と考えられていました
から、会堂長ヤイロは、娘が死んだとわかった途端、イエスへの救
済依頼を断念しています。(マルコ5:25)
これに対し、イエス・キリストは、癒しや奇跡によって病気の人
や死者に慰めを与えました。しかし、そればかりではありません。
旧約聖書にない新しい時代を拓かれました。イエスはその生涯の最
期において、自ら罪の罰としての死を死なれました。その死は、す
べての人の罪の罰を負う死でありましたゆえに、すべての人を罪の
罰としての死から解放しました。そして、そればかりではありませ
ん。罪の罰としての死の呪いから人類を解き放ったイエスは、もは
や死に制限されない命、永遠の命を受け継ぐ者となられました。神
が人類に与えようとしておられた永遠の命が、現実のものとなりま
した。
私たちにも永遠の命が用意されています。ハイデルベルク信仰問
答問58に言われる「目が見もせず耳が聞えもせず、人の心に思い浮
かびもしなかったような、完全な祝福」が用意されています。そし
て、この永遠の命は、「第二のアダム」であるキリストから、教会
の洗礼と宣教を通して私たちに今、与えられています。私たちは、
洗礼を大切にし、み言葉の宣教に与りつづけることによって、永遠
の命に与る者となりましょう。
(2008/01/13 三宅宣幸牧師)
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