『キリストの『よみがえり』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教21)
主たる聖書テキスト: コリントの信徒への手紙一 15章1〜20節
ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条を通してイエスの復活を学
ぶ時に、「イエスの復活は事実か」という問いを取り上げません。
いきなり、よみがえりの益(意味)は何か、と問います。それは、教
会の信仰いや存在そのものが、イエスの復活からはじまったもの、
つまり前提としているからです。それゆえ、クリスチャンでない人
が、とりわけキリスト教に敵対する人がイエスの復活に疑義をさし
はさむことはあり得ることなのですが、コリント一15:12以下による
と、すでに初代教会のクリスチャンの中に、キリストの復活を否定
し、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけ」(9節)の人
がいたことが知られます。
復活なしのキリスト教信仰とはどういう信仰なのでしょうか。そ
れはイエスの十字架死で終わる信仰です。つまりイエスの犠牲死で
終わる信仰です。そして、この犠牲死を崇め奉る信仰は、古今東西
どこにでもあるのですが、新約聖書の特に書簡の舞台となったギリ
シャでは、犠牲死をあがめる信仰はとりわけ強かったのです。その
一例として、悪法のゆえに犠牲となったソクラテス、また別の例と
して他者の罪の故の災いの犠牲となったメノイケウスがいますが、
ここでは詳細は省略します。悪法や人の罪のために犠牲死を遂げる、
これは大変に不幸なことだ。しかし、その犠牲死のおかげでアテネ
の法秩序は少しは改善され、一時的にテーベの町は守られた、これ
がギリシャの考え方であり、犠牲死をほめたたえる理由です。
さて、このようにしてキリスト教がもしも犠牲死としてのイエス
の十字架上での死で終わっていたら、一体どういうことになるので
しょうか。冤罪であることを知りながら十字架刑に処されることに
より、ローマの植民地支配体制を僅かに揺るがした死ということに
なるのでしょうか。あるいはあえて木にかけられることによりユダ
ヤの律法主義を批判された犠牲死とでもいう事になるのでしょうか。
そのような捉え方をしてそれなりの意味はあるでしょうか、イエス
の死は今の私たちには何の関係もないことになります。その私たち
がそのようなイエスを信じているとしたら、「すべての人の中で最
も惨めな者」(19節)ということになりはしないでしょうか。
イエスの生涯は十字架の死で終わってしまったのではありません。
復活されました。神のなさることですから、この復活を万人にわか
る客観的な仕方で証明することも可能だったでしょう。が、なぜか、
弟子たち一人一人に出会うという形でご自身を示されました。出会
った一人一人に何が起こったのでしょうか。
ヨハネによる福音書21章には、復活のイエスがペトロらに出会っ
た場面が出ています。物語の筋をたどってみましょう。イエスがい
らしたとき、最初の最初、弟子たちはそれがイエスだとはわかりま
せんでした。(4節) それが、「主だ」と分かった時(7節)、ペトロ
が真っ先にしたことが何かといえば、漁の途中で裸同然であったの
でしょう、上着をまとって湖に飛び込んだのです。復活のイエスに
畏れを抱いたのです。なぜ畏れたのでしょうか。一般的な(だれでも
抱く)神に対する畏れでしょうか。それもあったでしょうが、ペトロ
の場合には罪悪感です。この時まで(イエスの)復活などあるという
ことを思ってもみなかった弟子たちです。弟子たちにとってイエス
の十字架死は一つの犠牲死に過ぎません。人は犠牲死に直面した時、
どのような思いを抱くでしょうか。その人が近ければ近い程、悔い
が残るのです。どうして一緒に死ねなかったのか‥。ましてペトロ
の場合には、イエスを裏切りまでして、見捨てて逃げ去っているの
です。合わせる顔がありません。イエスが語りかけられても気まず
い沈黙が支配しました。(12節)しかし、食事をしてパンが分け与え
られたとき、弟子たちの目が、心が開かれました。なぜでしょうか。
ここで聖餐式が行れたのです。聖餐を通して弟子たちは、イエスが
十字架にかかられる前、最後の晩餐で言われたことを思い出しまし
た。イエスが十字架で流される血は「新しい契約」のしるし、つま
り罪によって壊れてしまった神と人間との関係をもう一度結ぶ和解
のしるしだったのです。そしてその目的のために死なれたイエスは、
今よみがえってここにいる。犠牲死とは違ってその業を完成された
のです。ペトロをはじめ弟子たちは復活のイエスと出会うことによ
り、罪のゆるしと新しい命を与えられ、そして、その力が実際に教
会を形成したのです。それゆえ、信仰問答は、イエスの復活の意義
を何よりもまず第一に、私たちが義に与ること、罪ある私たちがゆ
るされて正しいと認めていただくことにおいているのです。
(2007/10/28 三宅宣幸牧師)
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