『陰府にくだり』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教20)
主たる聖書テキスト: フィリピの信徒への手紙 2章1〜11節
ハイデルベルク信仰問答は、この「陰府にくだり」を、イエスが
「十字架上とそこに至るまで、‥その魂において忍ばれてきた言い
難い不安と苦痛と恐れ」すなわち「地獄のような不安」を指す、と
解釈しています。十字架刑につけられるということは、身体的にも
精神的にも大きな痛みを伴ったことは事実です、しかし、イエスが
そのことをご自分の使命として納得していらっしゃったなら、体や
心はいかに痛めつけられようとも、魂は平安だったかもしれません。
しかし、イエスはそうではありませんでした。イエスはゲッセマネ
の園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて
ください。」と祈られ、また十字架上においても、「エリ、エリ、
レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てにな
ったのですか。)」と叫ばれました。これは、イエスの痛みが体と心
にとどまるのでなく、神に捨てられた痛み、魂の痛みにまで至るも
のだったことを表わしています。これを地獄の苦しみと言います。
このイエスの地獄の苦しみのゆえに、私たちは体と心ばかりでなく、
魂の痛みからも解放されている、というのがハイデルベルク信仰問
答の解釈です。が、使徒信条が、「死にて葬られ」という告白にさ
らに「陰府にくだり」という告白を付け加えたことは、繰返しだけ
でなく、新たなメッセージも込められているからなのではないでし
ょうか。
しかし、陰府とは何なのでしょうか。神が天地と人類を創造した
ことを信ずる聖書の民にとっては、死んだあと、創造の時の姿を回
復することが目標でした。すなわち、アダムとエバにより罪と死が
この世に入り込んでしまいましたが、そのまま終わってしまっては
困る、永遠のいのちを与えられて神と共にあることが目標だったの
です。が、そのためには死者のよみがえりが必要です。神によって
よみがえらされるまで待たねばなりません。それでよみがえりの時
まで死者が待機するところ、それが陰府(旧約聖書ではシェオール、
新約聖書ではハデスと呼ばれています)でした。ゆえに、陰府とは死
者が全員一時的に待機する場所です。が、詩篇16篇(文語訳)に「そ
は汝、わが魂を陰府にすておきたまわず、‥なんじ命の道をわれに
示したまわん。」と謳われている如く、神は陰府に待機する魂を、
見捨てることなく、よみがえらせ引き上げてくださるのです。しか
し、拾い上げられない魂もあるわけで(しかも残るわけで)、だんだ
ん陰府のイメージが悪くなってきたことも確かです。しかしそれで
も、神に逆らいつづける者が最終的に行くところ(ゲヘナ;黙示録19:20
他)とは区別されていました。このゲヘナが、「地獄」なのです。
陰府がゲヘナではないとすると、使徒信条の「陰府にくだり」は、
本来どういう意味合いで告白されたのでしょうか。イエスは陰府で
何をされたのでしょうか。このことを指し示す聖書の記事が一箇所
だけあります。ペトロの手紙一3:19以下です。「そして、霊におい
てキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って、宣教されま
した。」(3:19) キリストが十字架上で息を引き取られて(金曜日
午後3時ごろ)から、よみがえられる(日曜日朝)まで、キリストは陰
府にくだり、(引き上げられなかった)多くの魂に宣教された、救い
の手を差し伸べられた‥これが、使徒信条の「陰府にくだり」の本
来の意味です。「陰府にくだり」の項は、ローマ信条に対し新たに
付け加えられた部分です。なぜ付け加えられたかと言えば、それは、
イエスの十字架による完全な救いが、生きている者に対してだけで
なく、すでに死んだ者、特にキリストのことを生前に知ることなく
死んだ者にも確かに及ぶのだ、ということを聖書のみ言葉(ペトロ一
3:19)によって確認した、ということなのではないでしょうか。
さて、その後のキリスト教会の歩みにおいて、陰府の思想は、カ
トリック教会の煉獄の教理という形であらぬ方へ行ってしまいまし
た。煉獄は、小罪の償いの残っている者が、罪の償いをするために
行くところとされてしまったのです。しかしながら、生きていても
死んでいても、そして大きな罪であろうが小さな罪であろうが、人
は自分の罪の償いが自分でできるのでしょうか。聖書は人の犯した
罪は、どんな罪であれ根本的には神への背きですから、その贖いは
イエスの十字架によるしかないことを証しています。(ルカ16:19以
下など参照) それゆえ、プロテスタント教会は煉獄の教理をはっき
りと否定しました。ルター派は、キリストが陰府にくだって救いを
もたらしたことを受け止めましたが、改革派は、陰府の存在をも想
定していません。が、いずれにしても、キリストの贖いが、死者に
も及ぶことを確かに受け止めているのです。
(2007/10/21 三宅宣幸牧師)
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