2007年10月07日

『死にて葬られ
(ハイデルベルク信仰問答講解説教19)

主たる聖書テキスト: ローマの信徒への手紙 6章1〜11節


 問40は、「なぜ、キリストは『死』を苦しまなければならなかっ
たのですか。」と問うています。この問い背後には、イエスが「神
の子」にならばなおさら、死ななくとも贖いができたのではないか、
との疑問があります。イエスは、宣教活動の最初、悪魔の誘惑を受
けられました。もし、石をパンに替えることができ、奇跡を行う力
があり、またもしもこの世の権力を掌握したら、その力によって、
飢えている人、病気の人、社会的弱者に救済の手を差し伸べること
ができるに違いありません。しかしイエスはその誘惑には乗られま
せんでした。人を本当に救うためには、すべての苦しみの原因であ
る罪、それゆえの罰、呪いを受け尽くさねばならないのです。その
ためには、罰を、呪いを完全に受ける死を死なねばなりません。問
41の答えが、「それによって、この方が本当に死なれたということ
を証するためです。」と言っているとおりです。そして、それを確
認するために、使徒信条は、「死にて葬られ」と、わざわざわかり
きったことを確認しているのです。イエスが本当に死なれたという
ことは、イエスの十字架において救いが完成したということです。
つまり、他の救いはいらないということです。イエスの十字架によ
る救いを受け入れるかどうか、それだけが問われる、それが、キリ
スト教のメッセージです。

 キリスト教会は、この完全な救いを受け入れようとする人々の群
れとして始まりました。しかし世の力は完全に滅ぼされたわけでは
ありません。その世の力の優勢の前に、キリストの救いの完全性を
信じとおすことは容易なことではありません。その戦いに負けて、
キリストの救いの完全性を疑う人、グループが教会の肢の中からも
出てきました。それが分派とも呼ばれるグループに属する人々です。
現代の分派のあるものは再臨のメシヤを自称し、あるものは別のメ
ッセージを聖書に付け加えようとします。どうしてこのようなこと
が起きるのか。その元は、キリストの贖いの完全性を受け入れてい
ない、信じていないところにあります。キリストの救いが完全であ
ることを受け入れないから、他の余計なものを付け加え、似ても似
つかないものとなってしまうのです。

 さて、キリストが完全な贖いをなしてくださったとするならば、
すぐに救いに与りたい、しかも、イエスが完全な死を死んでくださ
ったとすると、直ちに死の恐怖から救われたいと願う。それが問42
で取り扱っている問題です。まず、問答の前提となっているキリス
ト教の死生観についてふれてまいりましょう。人間は有限な存在で
すから、死は免れえません。聖書にも「人間=死すべき存在」とい
う捉え方がないわけではありません。(詩編90:1-6)しかし、その死
がいつ、どこからきたかと言うと、人類が創造された最初からでは
ないのです。エデンの園ではすべてが自由でしたが、主なる神がた
った一つ定めた禁令、「園のすべての木から取って食べなさい。た
だし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必
ず死んでしまう。」とのお言葉の中に初めて死が登場するのです。
そして事の経過は、誘惑に負けてその木から食べてまったその時か
ら、死が人類に入り込みました。死は罪と共に、罪の罰として人類
に入り込みました。そして、すべての被造物も巻き込まれていった
のです。それを受けて、パウロはローマ5:12で「このようなわけで、
ひとりの人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだ
ように、死はすべての人に及んだのです。」と言っているのです。
だとすると、キリストが自ら死んで人類の罪を贖ってくださったと
なると、私たちは罪からと同時に、死の恐怖からも解放されるので
はないか、というのが問42の問いです。キリストは確かに贖いの死
を死なれましたが、死んで蘇生したのではなく、よみがえったので
す。復活の体を、永遠の命を与えられたのです。そしてキリストの
復活は、コリントU12:20によれば、死んだ者の復活の初穂となりま
した。人は死なねばなりません。しかし、死んだあと、復活する、
永遠の命が与えられる道が開かれたのです。ゆえに、キリストを受
け入れた場合、個々の死について言えば、罪の死滅、永遠の命の入
り口となるのです。ローマ6:7で「死んだ者は罪から解放されていま
す。」とあるとおりです。

 しかし、たとえクリスチャンといえども、死を新しい命の始まり
と捉えることは容易なことではありません。が、クリスチャンには
完璧な死の準備教育が用意されています。問43で触れられていると
おり、洗礼をもってキリストと共に古い自分に死に、聖餐をもって
繰り返しキリストの死に与るのです。洗礼と聖餐の恵みに与りまし
ょう。

(2007/10/07 三宅宣幸牧師)

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