『我らの主』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教14)
主たる聖書テキスト: ローマの信徒への手紙 5章1〜11節
十字架上で死なれたイエスは、三日目によみがえられました。よ
みがえりのイエスは神の栄光を顕わし、ご自身が神から出た神の子
であることを否定しようもなくお示しになりました。そして、復活
の後、天に挙げられました。(使徒言行録1:6〜)父なる神のみふとこ
ろに戻られて、神の右に座しておられます。この世の支配者として
現在も君臨しておられます。本来でしたら、「天上のもの、地上の
もの、地下のものがすべて、イエスの御前にひざまづき‥」(フィリ
ピ2:10)となるはずなのですが、悪の力がはびこる今、イエスを主
(支配者)と認めない人の方が多いかもしれません。しかし、イエス
は事実治めておられます。イエスの十字架と復活に出会った者、教
会に連なる者はそのことを知っています。それゆえ、イエスは教会
の主であり、クリスチャンはイエスを主とお呼びするのです。今日
はイエスの第四の名「我らの主」について学びます。
神の名としての「主」は、神の名としての神聖四文字(新共同訳で
は「主なる神」)の翻訳ではなく、イスラエルの民が神をお呼びする
ときに用いた「アドナイ」という言葉に由来します。「アドナイ」は、
目下の者が目上の人をお呼びする時、奴隷が主人をお呼びするとき
の言葉でした。それゆえ、神を「主」とお呼びすることは、神の主
権、支配を認め、自分はそれに服従するということを表しています。
いつからイスラエルの人は神を主とお呼びするようになったのかと
言えば、一般にはアブラハムの時からとされています。アブラハム
はセム族の一族長にすぎませんでしたが、ハランの地にいたとき神
の召しを受け、「生まれ故郷を離れ、カナンの地に行くように、そ
うすれば子孫を繁栄させる。」との神の言葉をいただきました。ア
ブラハムはこの神の言葉を信じて旅立ち、カナンの地に入ったとき、
そこに祭壇を築いて礼拝をささげ、その時主の名を呼びました。つ
まり、主という名は、礼拝において会衆が神を拝むとき、神に服す
ることを誓って唱える名でした。それゆえ、主の名を呼ぶ者は、見
捨てられません。アブラハム以前にもセトの時主の名が呼ばれまし
た。(創世記4:26)兄弟殺しカインの罪が七代に及び、復讐鬼レメク
を生み出してしまったその時、アダムとエバが新たにもうけた子が
セトであり、セトにも子が与えられて、新たな出発がなされたとき、
主の名が呼ばれたのです。主の名を呼ぶ者は、絶望の淵でも見捨て
られません。また、ヨエル書3:5では、「主の御名を呼ぶ者は皆救わ
れる。」と預言されています。世の終わりのとき、最終的に救われ
るのは、主の名を呼ぶ者、主の支配に服することを告白する者です。
しかしながら、主の名を呼ぶことは神に全面服従を誓うことです
から、重いことです。イエスもルカ6:46で、「主よ、主よと呼ぶだ
けで実行しない者」を責めておられますが、まず第一に行動が伴わ
なければなりません。それに加えて、この世では大きな迫害を伴う
かもしれません。これは辛いことです。あの預言者エレミヤでさえ、
神から与えられた預言活動という使命のあまりの重さに堪えかねて、
「主の名を口にすまい。もうその名によって語らない。」とまで思
ったことを、エレミヤ20:9で正直に告白しています。復活後の今、
イエスが天上において主として君臨しておられることは事実として
も、私たちのような弱い人間が、本当に神の名を呼ぶことができる
のでしょうか。
ところで初代教会の信仰は、イエスを主とお呼びするところから
始まりました。(使徒言行録2:26など)しかし、その歩みは決して平
坦なものではなく、教会も使徒自身も幾多の苦難に晒されました。
なのに、使徒たちが、特に使徒パウロが主の名を呼びつづけること
ができたのはなぜでしょうか。本日の使徒書ローマ5:1-11によると、
それは神との間に平和を得ているからです。(1節)平和とは、別の言
葉でいえば和解です。(10節)「わたしたち(クリスチャン)」は、ク
リスチャンになる前は、神と敵対関係にありました。わたしたちの
罪の故です。神の被造物でありながら、いつも、善いことよりは悪
いことを、神の命令に従うよりは自己中心に生きてきたわたしたち
は、実は悪の支配下にありました。抜け出すこともできず、罪の罰
と償いという負債を負って「わたしたちがまだ罪人であった時」(8節)
神の独り子であるイエスが「わたしたちのために死んでくださった」。
これですべてが贖われ、将来に亘っても贖いを保証してくださいま
した。それゆえ神との和解、平和を得ています。一番の心配事であ
る神の怒りを、我らの主、神の独り子イエス・キリストが解決して
くださったのですから、イエスを「我らの主」とお呼びして歩みま
しょう。
(2007/09/02 三宅宣幸牧師)
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