『救い主イエス』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教11)
主たる聖書テキスト: 使徒言行録 4章5〜12節
今まで、二回にわたって「父なる神」について学んできましたが、
神が「父なる神」でおわしますことは、神が「子なる神」としてご
自身を啓示されたことが前提です。神は「子なる神」として人とな
られました。それが主イエス・キリストでした。使徒信条は、この
「子なる神」として神の啓示を第二項で示しています。私たちは今
日から、神が「子なる神」として何をなしたもうか、また、その神
のみ業を私たちはどのように受け止めたらよいか、の学びに入りま
す。
第一にハイデルベルク信仰問答は、問29、30で、「子なる神」が
イエスというお名前で、つまりナザレ人イエスとしてご自身をお示
しになられたことを取り上げています。「子なる神」は、人となら
れるにあたり、なぜナザレ人イエスとしてご自身を現されたのでし
ょうか。もちろん、神が人となられること自体が奇跡ですが、どう
せ人とならるのでしたら、もっと力ある名で人となられたらよかっ
たのではないでしょうか。しかし、ナザレ人イエスという名に、人
としての特権は一切ありません。「ただの人」として人となられた
ことを示しています。イスラエル自体「もっとも貧弱な民」(申命記
7:8)でしたし、ナザレは、良いものが出ないと言われる村でしたし
(ヨハネ1:46)、しかもイエスという名自体は、どこにでもある名(コ
ロサイ4:11参照)でした。が、この名には神の「父なる神」としての
愛が、親としての愛がいかに大きかったかが示されています。神は
「父なる神」として親として、いのちの危機にある人間を救うため、
生かすため、「子なる神」として人となり、しかも「ただの人」と
して人間の真っ只中にとびこまれました。ゆえに「イエス」の名は、
神が卑しくなられたこと(謙卑・ケノーシス)の象徴です。
しかし、ハイデルベルク信仰問答は、イエスというお名前に、謙
卑の象徴以上の意味、「救済者」としての意味を持たせています。
(問29)もちろんイエスというお名前自体に(ヘブル語ではヨシュア)
「主は救い」という意味があることも確かです。(マタイ1:12参照)
しかし、イエスと名のつく人すべてが「救済者」ではないのに、なぜ
ハイデルベルク信仰問答は、イエスに「救済者」、しかも「唯一の救
済者」の意味を持たせているのでしょうか。それにはハイデルベル
ク信仰問答の成立事情に少し触れてみなければなりません。この問
答書は1563年に南西ドイツの町ハイデルベルクで第一版が出版され
ました。ということは、この問答書は宗教改革の成果がまとめられ
た問答書であるということです。宗教改革の直前15世紀のヨーロッ
パはペストの流行と打ち続く戦争により人々は死への不安に駆られ
ていました。人々は死に至る罪からの救いを求めました。しかし、
当時の教会はこの求めに応えることができませんでした。ハイデル
ベルク信仰問答問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰
めは何ですか。」は、当時の人々の死に打ち勝つ救いを求める求め
を反映しています。宗教改革者たちは、その答えを、聖書に、特に
パウロの書簡に立ち返ることによって見出しました。人が義とされ
るのはイエス・キリストの信仰によるのです。(ガラテヤ2:16)すべ
ての救いの源は、あのナザレ人イエスの十字架にありました。ナザ
レ人イエスの名は、「父なる神」の謙卑の象徴でした。しかし、そ
の謙卑は、ナザレ人イエスの十字架の死にまで行き着きました。が、
行き着いたときに「イエス」の名は、謙卑の象徴ではなく、私たち
の罪からの解放のための「救済者」としての意味を持つようになった
のです。将棋の駒でたとえていえば、謙卑の駒の裏には、「救済者」
の文字が隠されていたのです。イエスの名そのものが「救済者」の意
味を持つのではありません。イエスの十字架によって、イエスの名
が、私たちの罪からの救済のしるし(象徴)となったのです。それゆ
え、この救いを確認した宗教改革者たちは、問30にあるごとく、他
の何者でもない、イエスの名によるしか救いはない、と叫びました。
本日の使徒書テキストを見てみましょう。主イエスの弟子である
ペトロは、ナザレ人イエスに神の謙卑を少しは感じ取っていたかも
しれません。(マルコ8:29など参照)しかし、その謙卑は彼にとって
腹立たしいものでありました。なぜなら謙卑の極みである十字架の
前に、裏切りという形でしか対応できなかったからです。しかし、
後に聖霊付与において「イエス」の名のもつ意味がすべてわかった彼
は、「ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが救
われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない
のです。」(使徒言行録4:12)と大胆に叫びました。
「イエス」の名は、「父なる神」の愛と救いのしるしです。私た
ちもこの名に立って歩みましょう。
(2007/08/12 三宅宣幸牧師)
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