『私たちはどうすれば?』
(ハイデルベルク信仰問答講解説教5)
主たる聖書テキスト: ローマの信徒への手紙 2章1〜11節
本日から第二部(どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか)に
入って参ります。神の命令を守ることができなかったことに人間の
悲惨さの根源があることを学びましたが、悲惨に中にある人間はど
うなるのでしょうか。神の命令違反ですから、神の怒りという永遠
の罰を受けねばなりません。しかし、もしも罰を免れる道があるな
らば‥、その場合には償いがなされねばなりません。問12にあるよ
うに、「完全な償い」が求められています。
が、私たちは、その前に、ひょっとしたら、神の永遠の罰を逃れ
られる人もいるのではないか、という疑問に取り組んで参りましょ
う。神の永遠の罰を逃れられるかもしれない、そのように自他共に
考えた人、それはイスラエルでした。
イスラエルの歴史は、神の選びの歴史であると同時に、民の背き
の歴史、神の忍耐の歴史でした。しかし、それでもイスラエルは神
の選びの民でした。何よりも、彼らは、神がアブラハムと契約を交
わしたとき、神に選ばれた民としての契約のしるし−割礼をきちん
とうけて来たのです。そこで、新約聖書の時代、イエス・キリスト
の時代、ユダヤ教では「たとえわれわれは罪を犯しても、われわれ
はあなたのものです。というのは、われわれはあなたのみ力を知っ
ているからです。しかし、われわれは罪を犯さないでしょう。」
(『ソロモンの知恵』)と考えていたのです。すなわち、選びの民で
あるイスラエルは、たぶん罪を犯さないだろうし、たとえ犯したと
しても神は大目に見てくれるというのです。
ところが、そのような「甘い」考え方に対し、使徒パウロが猛然
と反駁しているところが、本日の使徒書ローマ2:1-11です。結論部
分から先に述べます。「神は人を分け隔てなさいません。」(11節)
ここで言われていることは、神が恵みを与えてくださるのに、民族
の分け隔てがない、ということではありません。そうではなくて、
イスラエルの子孫であり、割礼も受けていて、つまり自分たちは神
に選ばれた民だから神は大目に見てくれると思っているユダヤ人に
も、選びからもれているとされるユダヤ人以外の人にも、罪に対し
ては、平等に罰が下されるとの意です。なぜでしょうか。「神はお
のおのの行いに従ってお報いになられます。」(6節)からです。この
み言葉は、信仰ではなく、行いが大切だ、という意味ではありませ
ん。割礼を受けた人も、すなわちユダヤ人も、割礼を受けていない
人(異邦人)も、同じ被造物ですから、神の命令を守ることが求めら
れている点では、全く同じです。それゆえ、神の命令を守るかどう
かだけが問われるということなのです。ユダヤ人の特権など何の役
にも立ちません。より大きな恩恵を与えられている分、より厳しい
律法が与えられているわけで、その律法違反の罪はより大きいので
す。もしも、罪を犯したとき、神が忍耐強く見守ってくださったと
したら、それは傲慢になるためではなく、畏れをもって神の命令に
従うべきことをもう一度決心する(悔い改める)時なのです。遠い出
来事のように思うかもしれません。しかし、割礼を洗礼と、ユダヤ
人を教会員と置き換えてみると、「他人事」ではないのではないで
しょうか。
万人が神の怒りの下にあることを思うとき、私たちは、その神の
永遠の罰から逃れる道を見出さないと、生きていけません。私たち
は、どうしたらいいのでしょうか。神が神として、被造物が被造物
としてあるかぎり、神が罪を大目に見るということはありえません。
もし逃れる道があるとするならば、償い、罪によって失われたもの
を補填するということによってしかありません。自分で償うという
のはどうでしょうかる「目には目を、歯には歯を。」と言われます
が、これは、償いをするときに、被害を与えたものと同等のものを
提供することによって、償いをなすべきことを言っています。が、
私たちは、「神の命令違反」に対して、償いうるものをもっている
でしょうか。人は罪を犯すことにより、神の「聖性」を冒したので
す。が、その償いとなるべき「聖性」を私たちは、そもそも持って
いないのです。それでは、動物犠牲ではどうでしょうか。動物犠牲
は神をなだめる働きはするかもしれません(創世記8:21)が、人間の
場合と同じく、被造物に過ぎない動物には、「聖性」はないのです。
神の「聖性」を冒した罪を償いうる何ものをも人も動物も一切持っ
ていません。
ではどうしたらいいのでしょうか。失われた「聖性」に対して「聖
性」をもって償いうる方、それは神ご自身(そして神と本質を等しく
する方)しかおられません。主イエス・キリストは、神であられたの
に、その「聖性」を棄てて人となられることにより、その償いの業
をなしてくださったのです。
(2007/06/24 三宅宣幸牧師)
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