『父と母とを敬いなさい』
主たる聖書テキスト: マタイによる福音書 15章1〜10節
聖書の世界では、親子関係をどう捉えているでしょうか。十戒の
第五戒で、人間関係についての戒めの第一として、「父と母とを敬
いなさい」と諭しています。親子関係を人間関係において最も大切
な関係と考えています。しかし、親は本当に子の尊敬に値する親で
あり、また子は親を尊敬することにより正しい歩みをなす、という
ことが現実に実行されてきたでしょうか。聖書はこの戒めを示すと
共に、この戒めを実行できない人間の有様をも描き、見つめてきて
いるのです。
人類最初の親子は、アダムとエバの夫婦と、その子カインとアベ
ルでした。エバが身ごもって人類最初の赤ちゃんが生まれた時、エ
バは「わたしは主によって男子を得た」(創世記4:1)と言ったと伝え
られています。よほど嬉しかったのでしょう。そして、さらに二男
アベルも与えられ、ここに絵に描いたような幸せな家庭が形作られ
ました。が、この家庭があっという間に崩壊していくのです。神様
に献げた供え物が受け入れられたかどうかがきっかけで、兄が弟を
殺すという家族内殺人事件へと発展してしまうのです。さて、聖書
には一切触れられていないのですが、この事件の時の、親の、特に
母親であるエバの思いはどのようなものだったでしょうか。自分が
お腹を痛めて生んだ二人の子、一人は殺人事件の被害者として、生
半ばにして命を絶たれ、あろうことか、もう一人の息子がその犯人
たる殺人犯なのです。読者はエバの思いを想像するだけで、心が引
き裂かれる思いがします。エバは、この事件の後どうしたでしょう
か。アベルを弔いつつ、なぜこの事件がおきてしまったのか、問い
続けたのではないでしょうか。そして、行き着いたところが、自身
が楽園追放されてしまった、あの神への背きの罪だったのではない
か、と想像されるのです。
罪が罪を生む、それが人類最初の親子関係でした。そして、それ
は人類の歴史となりました。しかし、神は人類を捨て置かれず、何
度も助け舟を出されました。最初は、掟という形で人のあるべき姿
を示されました。しかし、それが正しく守られることはありません
でした。後には預言者による警告が与えられましたが、それも聞か
れることはありませんでした。それでも、神は人類の代表たるイス
ラエルの民を見捨てることなく、何と、神ご自身が御一人子イエス・
キリストをこの世に遣わし、しかもその一人子を十字架上で死なせ
るという、親として最大の痛みを神ご自身が負われる事により、人
類の罪一切を処理され、私たち人類が幸せな親子関係を築ける基を
つくってくださったのです。
それゆえ、アダムとエバの家族は罪の家族の基となりましたが、
イエス様の地上の家族は、罪から自由な家族の基となったのです。
しかし、表面上を見ると、イエス様の家族も苦労の連続でした。父
ヨセフは早くに亡くなったらしく、母マリアには生活上の苦労がの
しかかったことと推察されます。また、頼りにしていたイエス様も
30歳のころ、突然家出して、宣教活動を開始してしまいます。マル
コ3:21には、身内の者がイエスを「気が変になった」として取り押
さえに来た、という記事が出ていますが、家族の混乱と当惑を表わ
しています。そして、宣教活動の結果は、イエス様の十字架刑でし
た。母マリアとしては、せっかく育てたイエス様が、何と犯罪人と
して死ぬという不幸のどん底に突き落とされてしまったのです。
ところが、この不幸は不幸で終わりはしませんでした。ヨハネ19:25
によると、母マリアは十字架上のイエス様の指示により、イエス様
に愛弟子と養子縁組をしました。これは何を意味しているでしょう
か。それは、母マリアが教会のメンバーとなったことを指していま
す。(使徒言行録1:14参照)教会のメンバーとなったとき、母マリアは
十字架の意味がわかった。それは、神の愛の成就。母マリアにとっ
て、子を失う不幸は、罪の苦しみではなく、神と共にある苦しみへ
と変わったのです。そこには、神の限りない慰めと憐れみがありま
した。
聖書で言う幸せな家庭とは何でしょうか。それは不幸のない家庭
のことではないのです。そこに、罪の苦しみのみがあるというので
はなく、神の憐れみが、慰めがある家庭なのです。本日のテキスト
は「父と母とを敬いなさい」という戒めの大切さを説いていますが、
この戒めが意味あるものとなるためには、贖いの愛をいただいた者
が家庭で何を最も大切にしているのか、それが問われているのでは
ないでしょうか。
(2007/05/20 三宅宣幸牧師)
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