『死者の復活』
主たる聖書テキスト: コリントの信徒への手紙一 15章50〜58節
本日は、使徒書としてコリントの信徒への手紙一15:50〜58を与え
られましたが、コリントの教会はどういう教会だったでしょうか。
「初心を忘れた教会」だったのです。
そもそもコリントの教会がどういう教会だったかと言えば、パウ
ロが第二伝道旅行の途中、一年六ヶ月にわたってそこに滞在した教
会、開拓教会だったのです。パウロは最初アキラとプリスキラとい
うユダヤ人の夫婦の家に住み込んで、テント造りの仕事をしながら
伝道しました。自給開拓伝道だったのです。使徒言行録は、コリン
ト教会に問題があったなどとは一言も触れておらず、開拓の初心に
則ったまことの礼拝が守られていたと思われるます。
ところが、後にパウロがコリントの教会の人々に宛てて書いたコ
リントの信徒への手紙を読むと、その様子が一変してしまったこと
がよくわかるのです。パウロが開拓伝道を離れてからこの手紙が書
かれるまでの間にコリント教会に二つの出来事がありました。一つ
は、別の教師が来たこと、もう一つは、おそらく人数が増えただろ
うことです。これらは教会が開拓伝道から発展していくときに、ど
の教会も必ず体験することです。この体験を通して成長していく教
会もあるでしょう。しかし、コリント教会の場合には、初心を忘れ
ていったのです。
コリントの信徒への手紙一は、数えてみますと、全部で10の「教
会が抱えている問題」へのパウロの解答というかたちで成り立って
います。そして、その多くが教会の信仰の基本−コリント教会の初
心−に触れる深刻な問題です。教会(キリスト教)の信仰の基本とい
えば、私たちが「使徒信条」で告白しているように、キリストの十
字架と復活を信じることです。キリストが十字架の死をもって人の
罪を贖って下さったこと、ゆえに、人はキリストを信じることによ
ってのみ救われること、また、キリストが甦ってくださったがゆえ
に、信徒は自分もよみがえりの希望に生きる、これです。コリント
教会の人々は、この信仰の基本、初心からそれてしまったようなの
です。
たとえば、その10の問題の中で、とりわけ多くの紙幅を割いて取
り扱われている三大問題は、分派争い(1-4章)、偶像礼拝(8-10章)、
霊的な賜物(12-14章)です。が、そもそもこのようなことが問題とな
ること自体、コリント教会がいかに初心から離れてしまっているか
を表しているのではないでしょうか。キリストの贖いの恵みによっ
てのみ救われるという信仰がしっかりしていさえすれば、救ってく
ださるのはキリストのみですから、「私は○○先生につく」「私は
△△先生に」といった分派争いは起きないはずです。キリストを遣
わしたもうた神のみへの信仰が確立していれば、偶像礼拝はありえ
ません。そして、キリストへの「信仰」のみによって救われていれ
ば、霊の賜物によって救いが異なることなどありません。あるべか
らざることが起こるということは。コリント教会に初心が失われて
いるということではないでしょうか。
そして、これら三大問題ほど紙幅を割いてはいないとはいえ、キ
リスト教の信仰の基本−初心−にかかわる重要な問題として、復活
の問題があります。コリント教会の人々は死者の復活を疑いました。
これも、キリストの復活の希望に生きていれば、ありえない疑問な
のです。パウロももちろんそのことを説きました。しかし、このパ
ウロの説得に対してコリント教会の人々はどのように対応したでし
ょうか。初心から逸れているのですから、悔い改めが起こってしか
るべきです。ところが、彼らは悔い改めませんでした。さらにパウ
ロに問いかけます。「それでは、ある人が生きているうちに、キリ
ストの再臨=世の終わりがきてしまったらどうなるか。まだこの人
は死んでいないので、復活の体を得ていないはずだ。」この答えは
難しいものではありません。キリストはすべての人の復活の初穂と
なってくださったのですから、死者は復活して朽ちない者とされる
のであり、その時まだ死んでいない者は、「朽ちるべき者が朽ちな
いものを着、この死ぬべき者が死なないものを着る」(50-55節参照)
のです。このキリストの恵みからすれば当然の答えの出る問いを、
コリントの人々はなぜ聞いたのでしょうか。それは「自己正当化」
です。ますます悪い方向へ進むのです。
初心から逸れたとき、「自己正当化」でなく、悔い改めの「実」を
結ぶ者へと造りかえられたいものです。
(2007/04/22 三宅宣幸牧師)
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