『小羊の婚宴』
主たる聖書テキスト: ヨハネの黙示録 19章6〜9節
心から成るまことの礼拝を守りたい。これはクリスチャン共通の
願いです。まことの礼拝が守られるためには、神様が、神様として
崇められることが必要です。ところが、礼拝者の心はなかなか神様
に集中しないのです。本日は、使徒書テキストとして、ヨハネの黙
示録19:6-9を与えられました。ヨハネの黙示録は、最初に七つの教
会に宛てた手紙から始まっています。その七つの教会に宛てられた
手紙を読むと、主イエス・キリストのご受難、復活の直後でありな
がら、もう既にまことの礼拝を守ることが困難になってしまってい
る教会の実態が明らかとなっています。
まず、エフェソの教会(2:1-7)ですが、この教会については「はじ
めのころの愛から離れてしまった。」(2:4)と言われています。つま
り、浮気するまではいかないのだが、浮気寸前なのです。二番目の
スミルナの教会(2:8-11)はどうか。ここは、苦難に遭いつつも、主
への忠誠を棄てない、まことの礼拝が守られています。もちろん、
まことの礼拝が守られている教会もあるのです。第三のペルガモの
教会(2:12-17)は危険状態です。今まで迫害の中でまことの礼拝を守
ってきたにもかかわらず、教会の中に既に浮気している者がいます。
放っておけば、裁きが待っています。次のティアティラ教会(2:18-29)
の場合は、事態はもっと深刻です。主の道からそれることを勧める
人が教会の中で活動するのを大目に見ているのです。この教会で立
ち返ってまことの礼拝を守る可能性のあるのは、その人の教えを受
け入れない少数の人だけです。サルディスの教会(3:1-6)は最悪です。
「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」(3:1)信
仰がすっかり失われては、まことの礼拝は守れません。が、次のフ
ィラデルフィアの教会(3:7-13)には希望が持てます。この教会は試
練に遭っても「力は弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名
を知らないと言わなかった。」(3:8)まことの礼拝を守り通しました。
そして、ラオディキアの教会(3:14-22)、エフェソと同じく、「冷た
くも熱くもない。」(3:15)いつ浮気してもおかしくない状態なので
す。
この七つの教会宛ての手紙は、全体として当時の教会の状況を表
していると言われています。だとすると、当時の教会のうち、28%
はまことの礼拝を守っている。しかし、28%の教会はいつ浮気して
もおかしくない状態、そして、43%の教会はすでに浮気をしている
か、信仰を完全に失った状態、これが当時の教会の実態であるとい
うことになります。私たちはこの事実をどのように受け止めたらよ
いでしょうか。一つは、どんなに大きな愛を受けても、人間はこん
なものだ、とあきらめる立場。この立場に立っているかぎり、滅び
に行き着くしかありません。しかしながら、主イエスの大きな愛に
応えられない自らの姿を少しでも嘆く気持ちがあるならば、救いの
道は開ける。その悔い改めの思いをもって、今の、自分たちの、教
会の有様を嘆く者に与えらた慰めの書、それが黙示録なのです。
それでは、黙示録が私たちに与える最大の慰めは何か。それは、
天上では、神の御許では完全な、まことの礼拝が守られているとい
うことです。もちろんこれは地上にいる人間が見ることのできるも
のではありません。黙示録の著者ヨハネも幻のうちに示されたもの
です。が、それでも私たちが必死にこの書に立ち向かうならば、私
たちは完全なまことの礼拝の希望を与えられるのです。天上での礼
拝について二つのことだけ触れたいと思います。ひとつは、24人の
長老が招かれていること。(4:4など)24は12部族の倍数で、すべての
主にある民が招かれているということ。教会に招かれた者は、すべ
て天上の礼拝にも招かれています。私たちはその招きに応えること
が求められています。第二は、この礼拝は、「屠られた小羊」(5:6
など)であられるイエスが仕切られます。贖い主なるまことの神、イ
エス・キリストにすべてを委ね、つまり拝む、そこにまことの礼拝
が成立します。まことの礼拝がなされるときそこには公正と正義と
愛とが全うされ、全てが白日の下にさらされます。そして、主の御
業が全うされんとする時、賛美の有様を描いたのが19章です。そこ
では「ハレルヤ(主を賛美せよ)」が歌われ、小羊の婚宴が用意され
ています。まことの礼拝を守る者には、究極の恵みとして、主イエ
スと一つとなる恩恵が用意されています。私たちには、主イエスの
恵みに応えるかどうかの選択が迫られているのです。
(2007/04/15 三宅宣幸牧師)
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