2007年04月08日

『死者の復活

主たる聖書テキスト: コリントの信徒への手紙一 15章12〜20節


 マグダラのマリアと弟子たちは、主イエスの復活の日の朝、空虚
な墓を発見しましたが、空虚な墓を見ただけでは、たとえ天使たち
に告げられたとしても、主イエスの復活の事実を受け入れることは
もちろん、そんなことが起こりうることすら、想像だにしなかった
のです。が、女性の弟子たちにも、男性の弟子たちにも、よみがえ
りの主イエスが、主イエスの方から現れられて初めて、この復活の
出来事は、弟子たちにとって真実となったのです。(ヨハネによる
福音書で言えば、20:11以下)

 ところが、初代のクリスチャンの中にも、主イエス・キリストの
復活をきちんと信じることのできない人たちがいたのです。
本日は、使徒書テキストとして、コリント一15:12-19を与えられま
した。が、12節に「あなたがたの中のある者が、死者の復活などな
い、と言っているのはどういうわけですか。」とパウロが言い、さ
らに13節「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはず
です。」と述べているのを見ると、クリスチャンでありながら、死者
の復活、キリストの復活を信じない人が、すでにパウロの時代にい
たということがわかるのです。もっとも、この手紙の宛先はコリン
ト教会ですから、最初から信仰がいいかげんだったということも考
えられるかもしれません。しかし、そうでなくともこの時代の考え
方に流されるクリスチャンもいたのです。

 それでは、彼らは、クリスチャンでありながら、なぜキリストの
復活、死者の復活を否定したのでしょうか。それは、たぶん、その
ころのギリシャ人の考え方が、クリスチャンになっても抜けなかっ
たからなのです。ギリシャ人は、人間は肉体と霊魂(魂)との両方か
らなる、と考えていました。人間の肉体は滅びますが、人間霊魂(魂)
は永遠なのです。人間の霊魂(魂)は、その人が(つまり肉体が)死ん
だら、肉体の束縛から離れて、むしろ自由になると考えていたので
す。だとすると、主イエスがよみがえったこと、者(肉体)がよみが
えることなど、到底信じられません。せいぜい復活とは死んだあと
も霊魂が生きていることだろう、くらいに考えていたようなのです。
そうしますと、復活とは、心の中の想像上の出来事になってしまい
ます。彼らにとっては、復活は単なる気休めに過ぎなかったのです。

 ところが、聖書の伝えるところはそうではありません。主イエス
は確かに死なれました。これは、否定できない事実です。しかし、
人々の心には生きていた、というのではなく、よみがえりの体をも
って弟子たちの前に現れた、これが、事実起こったことなのです。
現れられた主イエスは、お化けではありません。新しい体をもって、
霊の体をもって現れられたのです。なぜ、そのようなことが起こっ
たのでしょうか。それは、次のとおりです。主イエス・キリストは、
十字架をもって人類の罪をすべて贖われた。それでは贖われた人は
どうなるのでしょうか。すべてが自由になるのです。この者たちに
とっては、もはや死は罪の罰、罪のゆえに死ぬ死、空しい死ではあ
りません。そして、主イエスはよみがえらされました。主イエスが
よみがえったことによって、死んでも生きる、神様の前で安心して
生きることができる、そういう道を切り開いてくださったのです。
ですから、キリストの罪の贖いの恵みを受けた者、クリスチャンに
とっては、死は終わりではありません。神と顔と顔を合わせて生き
る、その始まりなのです。

 そもそも、私たちの命は例外なく神様が与えてくださったもので
す。与えてくださったのですから、とられたあともその後の道を用
意していてくださった、これが本来の姿でした。(創世記5:24によ
れば、エノクは神に取られていなくなりました。)ところが人類は
罪のために、この命を汚してしまいました。汚してしまいましたら、
空しく死ぬしかありません。死は罪の罰となりました。だから怖い
のです。しかし、主イエス・キリストが神から来られて、この人間
の罪を一切贖ってくださいました。そして、よみがえって神と共に
ある道を開いてくださいました。主イエスは、人間の本来の姿を取
り戻してくださったのです。

 私たちは復活の事実に直接触れることはできません。が、聖書があ
ります。聖書のみ言葉に真剣に向かうとき、主は私たちに現れ、語
りかけてくださるのではないでしょうか。

(2007/04/08 三宅宣幸牧師)

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