2007年04月01日

『罪を贖う唯一のいけにえ

主たる聖書テキスト: ヘブライ人への手紙 10章1〜10節


 レビ記4章には、「過って、主の戒めに違反し、禁じられているこ
とをして、それを一つでも破ったときの規定」(レビ記4:2)というこ
とで、それぞれのケースに応じて、どの動物をどのように献げなけ
ればならないかが細かく定められています。そして、16章では、そ
の罪の贖いの儀式が、年に一回、正規の祭司職に就いた者によって
行われるべきことが記されています。律法に基づいて、イスラエル
の民は、戒めを破っても、動物犠牲を献げれば大丈夫と考えてきたの
です。

 しかし、このような動物犠牲で、人間は本当に罪を清められ、恐
れから解放されるのでしょうか。第一に、そもそも人間の罪を動物
が身代わりになって贖うことができるのか、という問題があります。
日本の「水に流す」という実にいいかげんな罪の清めに比べれば、大
きな犠牲を払った行為と言えますが、人間より「弱い立場」にある
動物に人間の罪を負ってもらうことなどできるのでしょうか。

 そして、第二は根本的問題ですが、人間の罪は、量的質的に動物犠
牲という程度でつぐない得るものなのか、もっと大きく、深いもの
なのではないか、という問題点があります。ヘブライ人への手紙10
章は、この問題を扱っています。2節にあるごとく、動物犠牲は毎年
繰り返されますが、それはなぜか。人間の罪が次から次へと起こり、
償いきれないのです。量の問題です。

 そして、質の問題として、律法違反をした時に動物犠牲を献げる
というが、そもそも人間は律法を全然守れていないのであって、儀
式を行ったとしても、せいぜい律法を守れていない自分を知ること
しかできないのではないか(4節)ということなのです。この質の問題
ですが、イスラエルの歴史を見ると、全くそのとおりでした。神へ
の感謝のしるしとして民が守ることを約束したのが律法でしたが、
この律法は、神を第一とするということを要石とするものでした。
ところが、イスラエルの民は、この第一の戒めさえ守ることができ
ず、ついに民族の滅亡にまで至ってしまうのです。ここまで律法違
反をした民、神様に滅ぼされて当然です。しかし、神様は民をお見
捨てにならなかった。イスラエルの民の困窮のとき、助け手(士師、
王、預言者)を送り、救ってくださったのです。

 だとしたら、民のなすべきことは何でしょうか。律法違反のごく
一部だけを動物犠牲という儀式で贖って、「はい、わたし(たち)は、
これで潔白です。」と自分をごまかし、正当化するのではなく、「私
は、本当に罪人です。どうか、この罪人の私を憐れんでください。」
と神の前に悔いることこそが求められているのではないでしょうか。

 10:5〜は、詩編40:7〜9からの引用なのですが、詩編の詩人の中に、
すでに動物犠牲の欺瞞に気付いた人がいたのです。パウロの言葉で
言えば、自らの力で罪を何とかしようとするのではなく、神の憐れ
みに身を委ね、信仰によって生きる者こそ、救われるのです。

 しかし、神様が、個々の律法違反にとどまらず、律法そのものを
守ることができなかった民をお見捨てにならないということは、本
当なのだろうか。どこまで赦されるのか、不安が残るのです。いや、
大丈夫なのです。神様は、動物犠牲に勝るまことの犠牲、十分な犠
牲を私たちに与えてくださった、そのことが10節に短く、端的に記
されています。それは何でしょうか。それは御子イエス・キリスト
の犠牲なのです。

 この犠牲は、第一に、十分な犠牲です。なぜなら、御子は、私たち
人間より下位な動物たちと違って、私たち人間よりはるかに上位の
方でいらっしゃいます。私たちは、その上位の方の犠牲に与らせて
いただいているのです。第二に、この犠牲はまことの犠牲です。動
物犠牲は律法上ではただの儀式(影)でした。人は赦された気になっ
た(自己満足)かもしれませんが、それだけでした。ところが、イエ
ス・キリストは本当に十字架にかかって死んでくださったのです。
何と「有り難い」ことなのでしょうか。それは、私たち自身の人生
さえも変えるものなのではないでしょうか。

 私たちは、このイエス・キリストのまことの、十分な犠牲にどう
お答えしたらよいでしょうか。それは、私たちも、まことの、十分
な犠牲をもって神と人とに仕えることなのではないでしょうか。

(2007/04/01 三宅宣幸牧師)

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