『大祭司イエス』
主たる聖書テキスト: ヘブライ人への手紙 5章1〜11節
主イエスのご受難の日が近づいて来ました。
一週間後には受難週、そして受難日、イースターと主イエスの歩み
は進んで行きます。主のご生涯の大切な部分と、4月から始まる元
住吉教会の新しい体制の重なりを考えこの時期私たちは心して生活
しなければなりません。
本日の説教は「大祭司イエス」と題しました。大祭司としてのイ
エスこれはイエスが私たちにしてくださった救いのみ業の中でもと
りわけ大切な働きです。このことが理解されないと、主のご受難の
意味もまた分からなくなってしまいます。
そこで、今日はまずルカ福音書20章9節以下の「ぶどう園と農
夫のたとえ」を手がかりにしてその意味を考えてみたいと思います。
このたとえはイスラエルの歴史における人々、とりわけ指導者た
ちの神様に対する態度を象徴的に表しています。主人は神様、ぶど
う園はイスラエル民族、農夫は指導者です。神様はイスラエルの歴
史を通して人間の救いを実現されようとしましたが、彼らは神様の
意思を理解しようとせず、かえって神様をないがしろしにして、自
分本位に生きて行こうとします。このたとえには「僕」と呼ばれる
人たちが何人か登場していますが、この僕たちは旧約聖書に登場す
る「預言者」と考えてもよいかと思います。
旧約聖書(イスラエル史)において、歴代の預言者たちは指導者
や民の、まるで神様がおいでにならないかのような政治と信仰生活
の様子を見て「神にたち返る」ように呼びかけ、時に神様に背く者
に厳しい裁きがあることを警告しました。しかし、度重なる預言者
たちの働きもむなしく、指導者や民はたとえの内容のように神様の
使いである預言者を「追い返し、袋だたきにし、何も持たせないで
(悔い改めすることもなしに)傷を負わせてことごとく排斥しまし
た。
次に、このたとえでは、ぶどう園の主人が最後の方法として「息
子」をぶどう園に送るという展開になっていますが、この息子は主
イエスのことだと考えてよいでしょう。神様は最後の救いの切り札
として主イエスをイスラエルに送られ、主イエスを通してご自身の
意思をイスラエルに伝え、救いを成就されようとしたのですが、ま
たもや(農夫)指導者たちはあの僕(預言者)たちと同様に扱いま
す。それどころか最後には息子を殺してしまうのです。
こうして見てくると、農夫たちの計画は一見成功しているように
思われます。また、ぶどう園の主人の思いは挫折し、大切な跡取り
息子までなくしてしまうという、無残で最悪な結果に終ってしまう
ように思われます。しかし、「家を建てる者の捨てた石、これが隅
の親石となった」とあるように、神様はたとえにある息子の死、つ
まり主イエスの(十字架の)死によってイスラエルと世界を贖い、
罪を赦し、救いを実現されたのです。
このように、人間的に見れば主イエスの死は無残で意味のない死
でしかないように思われますが、神様はかえってこのような仕方で
救いを実現されようとなさったのです。
そして、主イエスはご自身の十字架の死を通して、神様と人間の
間に立ってくださり、本来は人間自身がしなければならなかった
「罪の始末」を負ってくださったのでした。
大祭司は、年に一度の大贖罪日に神殿の至聖所で自分と民の罪の
赦しのために雄牛の血を祭壇に振り注いだといわれます。このよう
なことから考えると、主の十字架の生涯の意味が分かるのではない
でしょうか。
前述したように、人間的に見れば主イエスの十字架の死は人間の
死の中で最も醜い死としか考えられないでしょう。しかし、神様は
あえてこのような仕方において人間を罪から救おうとされたのです。
主イエスの死は惨めで醜いものであるかも知れませんが、本当に醜
いのは「神なし」に生きようとする人間の態度ではないでしょうか。
主イエスのご受難が近づいたこの時、十字架の真の意味をよく理
解し、礼拝を中心に信仰生活を整え毎日を過ごしたいと思います。
(2007/03/25 石井道夫牧師)
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