2007年03月11日

『福音のために苦しみを受ける

主たる聖書テキスト: テモテへの手紙二 2章8〜13節


 パウロもキリストの十字架の愛によって救われた一人でした。そ
して、愛をいただいたパウロ自身も、キリストに遣わされた者とし
て、十字架を負い、そして、人を救いに導いてきました。しかし、
ついに彼も究極の十字架の前に立つこととなりました。自分の命を
犠牲にして、迫害者たちの罪を負い、死をもって、命をもたらさね
ばならない時、殉教の時を迎えたのです。

 本日は、使徒書としてテモテへの手紙二を与えられました。この
テモテUは、1月28日の礼拝でも取り上げたように、パウロがいよい
よ殉教の死を前にして、自分の弟子にして同労者であるテモテに送っ
た手紙です。使徒言行録でたどれる限りでは、パウロが最後に獄に
入ったのはカイサリヤなのですが、この手紙の記述(1:17)からする
と、ローマかもしれません。

 ところが、このように自分の十字架を背負って死を迎えようとし
ているパウロに対して、支える教会員はどうであったかと言うと、
ひどいものでした。わずかに5ページのこの手紙の中2、パウロに背
いていった人の名が実名で4名も出ているごとく、もちろん多くの信
者は自分の十字架も負いつつパウロを祈りのうちに支えたのでしょ
うが、そうでない人もたくさんいたのです。

 第一に、逃げ出してしまった人がいました。1:15に、アジア州の
多くの人がパウロから離れ去り、つまり逃げ出し、その中に、フィ
ゲロとヘルモゲネスがいたことが記されています。弾圧、困難が起
こってくると、必ず逃げ出す人が出てきます。キリシタン時代も多
くの背教者が出ました。昭和の弾圧のときもそうだったと思われま
す。真にキリストの救いに拠るのではなく、ブームや雰囲気だけで
キリスト教に近づく人は、逆風が吹くと逃げ出すのです。

 第二は、苦し紛れだと思いますが、安易な教えにそれていく人が
出てくるのです。昭和の弾圧のとき、ホーリネス教会の牧師たちは、
神第一を貫き、厳しい弾圧を受けました。が、当時の牧師の中には、
日本こそ神の国と言い出す人もいたのです。パウロの時も、ヒメナ
イとフィレトという二人の人が、「復活はもう起こった」と言い出
したこと(2:17-18)が記されています。たぶん、ギリシャ哲学の伝統
にすりより、弾圧を逃れようとしたのではないでしょうか。

 第三に、3:1-にあるように、弾圧で苦しめられると、教会の中で、
倫理的感覚が麻痺してくること。日本の弾圧のときも、裏切りは横
行していました。

 パウロは内憂外患だったのです。これから、殉教の死を覚悟して、
死を遂げようとしているのに。教会内は、倫理的にたがが外れ、安
易な教えに走り、逃亡する人が多い。これでは一体どうなってしま
うのか。

 しかし、パウロは全く動じないのです。それは、パウロの受けん
としている十字架の苦しみは、キリストの十字架、キリストの苦し
みそのものだからです。つまり、パウロも、キリストの贖罪死を共
に担っているのです。コロサイの信徒への手紙1:24に「キリストの
苦しみの欠けたところを身をもって満たしている」とパウロが述べ
ているとおり、パウロの死は、倫理的にいかれてしまった人、安易
な考えに走った人、逃げ出してしまった人の罪を負うものでもある
のです。
 10節、(パウロが苦しむのは)「彼らもキリスト・イエスによる救
いと永遠の栄光を共に得るため」なのです。

 さて、最後に、13節に注目していただきたいと思います。「わた
したちが誠実でなくとも」と始まります。わたしたちが誠実でない
とは、どういう時でしょうか。それは当然、倫理的にいかれた時、
安易な考えに走る時、逃げ出す時です。そういう時、それは捨てら
れて当然なのではないでしょうか。12節後半に「キリストを否むな
ら、キリストも私たちを否まれる。」とあるとおりです。しかし、
この文章の結論は違います。「キリストは常に真実であられる。」
なのです。キリストは棄てません。キリストの死は、このように罪
ある者にも救いの道を開いてくださるものだったのです。キリスト
の死は、罪びとを生かす、よろこびの死だったのです。

 私たち自身も、キリストの愛を受け、ほんの少しではありますが、
キリストの十字架を共に担う者とさせていただいているのです。私
たちも、十字架を担いつつ、よろこびをもたらす者とさせていただ
きたいものです。

(2007/03/11 三宅宣幸牧師)

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