『主の前にへりくだれ』
主たる聖書テキスト: ローマの信徒への手紙 10章8〜13節
パウロの異邦人伝道は、必ずしも成功ばかりではありませんでし
た。その中で、最も困難を極めたのが、コリント伝道でした。コリ
ント教会は、パウロが一年六ヶ月も滞在し(使徒言行録18:11)、心を
込めて伝道したにもかかわらず、福音からそれ、パウロを大いに苦
しめました。が、なぜコリント教会の人々が福音からそれたかと言
えば、それは「神を第一とする」というところが弱かったからです。
もちろん、キリストはコリントの教会の人々の為にも救いの道を開
いてくださいました。しかし、それまでまことの神を礼拝するとい
う習慣を持っていなかった彼らは、イエス・キリストを通して与え
られた恵みに答えて神を第一として歩む、ということがなかなかで
きないのです。神様の恵みをいただいて救われた途端、神様を第一
として畏れを抱くのではなく、逆に自分が神を知った者として偉く
なったような気になってしまうのです。これが、コリント教会が、
パウロのたびたびの忠告にもかかわらず抜け出せなかった「福音か
らの逸脱」なのです。まことの神を第一とすることに弱い、これが
異邦人の、異邦人クリスチャンの、異邦人教会の弱みなのです。
この、なかなかまことの神がわからない異邦人への伝道に苦労す
るパウロに、ユダヤ人からの非難、批判が追い討ちをかけます。ほ
ら、見たことか。異邦人は、神に従う生活などできないではないか…。
ユダヤ人のうち、ユダヤ教徒は、異邦人の救い自体認めませんから、
パウロを全否定します。しかし、ユダヤ人のクリスチャンの中から
も、パウロに対する批判が出るのです。つまり、異邦人クリスチャ
ンが始末に終えないのは、律法を守らないからだ、異邦人クリスチ
ャンにも律法を守らせるべきだ、と言うのです。実際、ガラテヤの
教会では、パウロが伝道した後、ユダヤ人クリスチャンが乗り込ん
できて、異邦人のクリスチャンに律法を守ることを強制したのです。
さて、パウロは、このようなユダヤ人クリスチャンの批判にどう
答え、どう対処したのでしょうか。それが、ローマの信徒への手紙
のテーマの一つです。
ローマ1:5で、自分が「異邦人の使徒」として立てられたとするパ
ウロは、3:21以下で、人間は、自分の力で救われることはできない
ので、信仰によって神様の救いに与るしかない、人が救われるのは
イエス・キリストを信ずる信仰による、と福音の真理を述べていま
す。旧約時代救われた人も実はそうだったのです。アブラハムの場
合もそうでした。(4章) 神様がアブラハムに「わたしはあなたを祝
福し、あなたの子孫を大いなる国民にする。」と声をかけられた時、
彼はまだ割礼を受けていませんでした。アブラハムは、割礼を受け
ていなくても、神の言葉を信じて出発したので救われたのです。割
礼は、その後、いただいた恵みのしるしとして、受けたのです。そ
れゆえ、律法の持つ意味は何かと言えば、7:7以下ですが、パウロの
場合には、それを守ることによって救われる手立てではなく、守ろ
うとしてもそれができないことによって、自分が罪ある者であるこ
とを知るための手段なのです。
それゆえ、クリスチャンが守らねばならないのは、律法を守るこ
とではありません。本当に、本気でイエス・キリストを信ずること
です。今日の10:8〜のテキストは、クリスチャンがキリストを本気
で信ずるために何が必要かを述べています。一つは「口でイエスは
主であると公に言い表す」ことです。本気で信じていれば、口で言
い表せるはずです。具体的には、「洗礼を受けること」です。そし
て第二は「心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じること」
です。具体的には信仰告白をすることです。この二つを本気で守る
とき、クリスチャンは、神と共にいるのです。コリント教会の人々
のように福音からそれることなく、ユダヤ人にもギリシア人にも分
け隔てなく与えられた神様の恵みに与りつづけることができるので
す。
さて、私たちはれっきとした異邦人ではないでしょうか。律法を
守り、神を第一とした生活を歩もうと努力したことなどありません。
今まで、自分のことしか考えないで好き勝手なことを行ってきまし
た。そして、神様から無条件の恵みを頂いた時、一時は感謝の思い
を抱きましたが、すぐに「コリント」に走りました。しかし、それ
ではいけません。今からは悔い改めて、本気でキリストを信じて、
感謝の毎日を過ごしたいものです。
(2007/02/25 三宅宣幸牧師)
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