2007年02月18日

『マルタ島でのパウロの働き

主たる聖書テキスト: 使徒言行録 28章1〜6節


 使徒言行録27章以降の主人公パウロですが、多くの教会を立ち上
げ、支えてきた人です。そのパウロが、未決囚とはいえ囚われの身
となってしまったのです。キリストの福音宣教は冬眠期を迎え、停
滞してしまったのでしょうか。そうではありません。神は何とその
囚人護送船の中を教会に変え、まことの教会、聖餐式がきちんと守
られる教会を作り上げてしまったのです。

 囚人護送船の中ですから、その船の中は最初は教会でも何でもあ
りませんでした。ただの罪人の集まりでしかありませんでした。い
やいや任務についていたであろう兵士たち、この船に乗り込んだ不
運を嘆いていたであろう船員たち、そして、折あらば逃げ出そうと考
えていたかもしれない囚人たち、まさにこの船の中は有象無象の集
まりだったのです。ですから、クレタ島で、「良い港」を出航する
かどうかでもめたとき、人々は誰一人パウロの言葉を聞かずに、自
分のことしか考えていなかったであろう船長や船員の言葉を信用し
て船出してしまったのです。まさに、この船には、不信仰が満ち満
ちていました。(27:11)

 ところが、彼らは「エウラキロン」と言う暴風に遭って変わりま
す。変わらざるを得なかったのです。それはひどい暴風でした。二
日目には積荷を投げ捨て、三日目には船具さえ投げ捨てねばなりま
せんでした。そしてその後何日も、太陽も星も見えず、暴風は吹き
まくったのです。(27:20)この暴風に遭って彼らの何が変わったので
しょうか。彼らは、命の危機に直面したのです。そして、この本当
の危機のに直面したとき、彼らが、危機の時に役に立つかもしれな
いと思っていた船具までもが役に立たない、どころか、もしそれを
後生大事に抱えていたら、彼らの命さえもが危ない事態に陥ったの
です。彼らは、この時、神に頼るしか術はないのだ、ということに
気付いたのです。

 そのとき、パウロを通して神の言葉が響き渡りました。(22節以
下)この時パウロの口を通して語られた言葉が、神の言葉として受け
止められたのです。使徒の言葉が、宣教者として立てられた者の言
葉が神の言葉として受け止められるとき、そこに教会が成立します。
烏合の衆に過ぎなかった船の中は、今や聖なる教会となったのです。

 この囚人船のメンバーに投げかけられた神のみ言葉は何だったで
しょうか。それは27:22「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんの
うちだれ一人として命を失う者はない。」だったのです。神はあな
たがたを決してお見捨てにならない。神がかつてエジプトで奴隷で
ある民に、バビロンで捕囚でいる民に語りかけられた、あのメッセ
ージだったのです。兵士、船員、囚人のところへキリストは来て下
さり、キリストの救いが到来したのです。

 14日目に救いの兆しと、そして危機とがやってきました。危機を
乗り越えたと思ったとき、新たな危機がやってきます。浅瀬に近づ
いたのです。喜ばしいことです。ところがこの時船から逃げ出そう
とした船員がいたのです。教会が落ち着いたとき、自分の利益に走
る人が出て来ることがあります。しかし、救いにもれる人を許すこ
とは、教会全体の救いを揺るがします。そこでパウロは、船員の脱
走を食い止めるよう指示したのです。かつて、不信仰にして、パウロ
の言うことを聞かなかった兵士たちが、今や、パウロの言葉に聴き
従うのです。崩壊せんとする教会を守るのは、聞き従う者なのです。

 そして、この危機を乗り越えて、共に守ったもの、それが聖餐式で
した。パウロはパンを取って神に感謝の祈りをささげ、それを食べ、
分かち合ったのです。教会を一つにするもの、それは、主の十字架と
復活を記念する聖餐式であり、また、それのみなのです。

 そして島に上陸し本当に救われたと思った途端、今度は教会その
ものを揺るがす危機が訪れました。パウロが蝮にかまれたのです。
これは、パウロの生命にかかわるばかりではありません。人々はパ
ウロへの不信感を抱き始めたのです。外の危険から脱したとき、教
会の罪は、指導者不信という形で爆発します。しかし、主はこんな
ことには動じられません。パウロは何の害も受けないのです。

 私たちは今どこにいるでしょうか。八方塞で「出口」を求めては
いませんでしょうか。が、神は出口を示されるのではなく、今この場
を教会に変えてくださるのです。

(2007/02/18 三宅宣幸牧師)

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