『キリストを信じて生きる』
主たる聖書テキスト: 使徒言行録 3章1〜10節
本日は、建国記念の日となっていますが、日本基督教団の教会暦
によりますと「信教の自由を守る日」であります。私は、この日と
8月15日の敗戦の日になると、T牧師の父君のことを想い起こします。
この方はやはり牧師で戦争中、イエスをキリスト、救い主と告白す
る故に逮捕され獄死されました。T牧師は、父君のご遺体を警察に
引き取りに行かれたのですが、その帰り道、凍てついた道に荷車が
難渋する度に、父君のやせ細ったご遺体が粗末な柩の板に当たり、
ゴトゴトと音を立てていたということを忘れることが出来ないと仰っ
ておられました。このT牧師の父君に限らず、戦争中の厳しい宗教
弾圧の中で殉教された教会の先達が多くおられます。私たちの信仰
はそのような方たちの流された尊い血の上に成り立っているのだと
いうことを決して忘れてはなりません。また、正しく信仰を守り続
ける努力をしなければなりません。
さて、週報にある今日の聖句は「わたしには金や銀はないが、持っ
ているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立
ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章6節)です。
この言葉は、ペンテコステの出来事の後に神殿の「美しい門」の
そばでペテロによって語られました。この頃、キリスト教はまだユ
ダヤ教の習慣を残していたようですが、ペテロはヨハネと一緒に神
殿に祈りをささげるためにやって来ます。彼らが美しい門にさしか
かると、そこには生来足の不自由な男が運ばれて来ました。この男
性は神殿に詣でる人たちからの施しを当てにして毎日この門に来て
身を置いていたようです。
男は、今日も自分の前を通る人に施しを求めます。ペテロは「私
には金や銀は」と言っていますので、神殿に詣でる人の何人かは恐
らくこの男に金銭を施していたのでしょう。また、この物乞いは習
慣化していたと思われます。つまりこの男は、人から何かしてもら
うのが当然という、受身の人生態度になってしまっていました。
そして、今自分の前に立つぺテロとヨハネに対しても、いつもと
同じように何かを貰えるものと思って待っています。
しかし、ペテロは「わたしには金や銀はない」と、はっきり言い
ます。男は、何だと思ったことでしょう。ペテロはこの男の生活が
不自由で大変なことは知っていました。けれども、施しをしたとこ
ろで、この男の人生の本当の問題が解決するとは思っていませんで
した。むしろ、この男に本当に必要なことは人生を諦めて後ろ向き
に生きるのではなく、主体的な人生をもう一度自分自身に取り戻す
ことであると考えました。そして、そのために必要なものは金や銀
ではなく「イエス・キリストの力」にあずかることに他ならないと
考えたのです。
ペテロは力強く男に向かって宣言するかのように「キリストの名
によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、男の手を取って立ち上
がらせます。それは、単に身体的な回復に止まらず、生まれてから
何十年となくこの男の人生にのしかかっていた「重荷」が軽くされ、
人生に新たな希望の光がさしてきたかのような、人生の真の回復に
他なりませんでした。
男は、重荷から解き放たれた心身を躍動させて喜びを表現します。
そして、神殿の境内に入りさらに喜び続け、神様を賛美します。
イエス・キリストを知るということは、人生にとって何にも替え
がたいことです。金銀は時には衣食住の解決に役立つことも確かで
す。しかし、衣食住が足りた生活が満たされたとしても、人生が本
当の意味で満たされることはありません。人間は物で生きるもので
はないからです。
人生が本当に満たされるのは、イエス・キリストと出会い、イエ
ス・キリストが私たちの罪を赦してくださり、人生の悩み、苦しみ
を担ってくださり、人生の最後の支え手、助け手として共にいてく
ださることを信じることが出来た時です。その時、人はどのような
厳しい状況のもとにあろうと、決して後ろ向きにならず、現状に諦
める満足することなく、主体的に生きてゆくことが出来る者となる
のです。
今日の私たちもまた、イエス・キリストを心から信じ健やかにさ
れていきたいと思います。
(2007/2/11 石井道夫牧師)
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