『生ける神の神殿』
主たる聖書テキスト: コリントの信徒への手紙二 6章14〜7章1節
教会は聖なる宮です。コリント教会のようになってしまった教会
が、その聖さを取り戻すためには、どうしたらよいのでしょうか。
一方で、教会の深い悔い改めが必要です。しかし、もう一方で、こ
こまで貶められてしまった使徒職(教職)の権威の回復が必要なので
はないでしょうか。使徒職(教職)の権威の根拠は何なのでしょうか。
そして、パウロは、それにふさわしい務めを果たしているのでしょ
うか。
このテーマにパウロが触れているのは、Uコリント2:14〜7:4の部
分です。使徒職(教職)の権威の根拠は、まず、按手を通して、キリ
ストの栄光をいただいているからです。
もちろん、パウロ自身は、いやパウロに限らず、使徒職(教職)に
ある者は皆、自分が栄光を持っているわけではありません。土の器
(4:7)にすぎないのです。この「土の器」には、大きく分けて二つの
意味があります。一つは、人間が土の塵から造られた(創世記2:7)に
由来します。人は、どんなに頑張っても、どんなに力があっても、
所詮は土の塵によって造られたものにすぎないのです。すなわち、
肉なる者だということです。
ですから、自分の力で神に近づくことは出来ません。にもかかわ
らず、神は、使徒職にある者に、「新しい契約に仕える資格」(3:6)
を与えてくださったのです。新しい契約とは何でしょうか。それは、
キリストによって、キリストの肉なる世界との和解によって与えら
れた神の霊による契約です。救いです。使徒職に召された者は、皆
この霊を、霊に仕える資格を受けたゆえ、モーセ以上の働きをする
よう求められていますし、しなければいけません。すなわち、律法
ではなく、イエス・キリストの和解の福音を宣べ伝え、それによっ
て、教会を指導しなければならないのです。
しかし、肉に過ぎない者が使徒職のような務めを果たすことがで
きるのでしょうか。それは、土の器のもう一つの意味にかかわって
きます。土の器のもう一つの意味とは、それが金や銀の器ではなく
て、見栄えのしないものであることを意味するのです。当時のギリ
シャの価値観では、善いもの、美しいものは、均整のとれた、見栄
えのするもののことでした。しかし、Uコリントでは、パウロが見
栄えのしない人であったことが示唆されています。(10:10) が、そ
ればかりではありません。パウロにとって、土の器とは、彼に襲い
かかってくる苦難を意味したのです。ギリシャでは、労働をして苦
労するのは、奴隷の仕事でした。市民は労働をせず、苦労せず、暇
(スコレー)を用いて学問をしたのです。しかし、パウロは、苦労が
あるたびごとに、苦難が襲ってくるたびごとに、キリストに、キリ
ストの苦難に近づくことを喜んだのです。「わたしたちは、いつも
イエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるた
めに。わたしたちは生きている間、絶えず、イエスのために死にさ
らされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」
(4:10〜11)
さて、パウロは、この使徒職として与えられた栄光に、権威にふ
さわしい生活をしていたでしょうか。パウロの生涯を24時間全てを
含めて記録したものがあるわけではありませんから、完全にはわか
りませんが、パウロの場合、十分にその務めを果たしたのではない
でしょうか。が、このことはパウロだけでなく、パウロの後を継ぐ
教職にも問われているのではないでしょうかるみ言葉を宣べ伝えて
いるか、キリストにある苦難を受け止めているか、このことが、こ
のことのみが問われているのです。
一方、コリント教会の信徒の方はどうでしょうか。本日の使徒書
テキストである6:14〜7:1は、誰が読んでも、前後がつながらない部
分です。後から挿入されたと考えられます。そして、皮肉なことに、
ここには、コリント教会の教会員が現に行っていることと逆のこと
が記されています。コリント教会の信徒は、肉の世界に、しかもど
っぷり浸かって生きていますが、キリスト信徒は、本来は、肉の世
界を絶ち、霊の世界に生きないといけないのです。教職にある者が、
霊の世界に仕える者として、ますます整えられることが必要です。
しかし、そればかりではなく、教会員が肉の世界に生きることをや
め、霊の世界に生きる者とならなければ、教会の将来はありません。
神はお見捨てになります。中途半端な悔い改めで、教会の歴史に何
の寄与もしなかったコリント教会のようでいいのでしょうか。
(2007/01/28 三宅宣幸牧師)
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