『み言葉を語る』
主たる聖書テキスト: 使徒言行録 16章11〜15節
本日の使徒書は、使徒言行録をテキストとして与えられました。
が、使徒言行録は、イエス・キリストご昇天後の出来事を、ただ単
に記録したものに過ぎないものではありません。イエス・キリスト
による神の救いが成就し、教会の時が始まった、その教会の時の最
初の有様が記されているのです。教会の時の中にいる私たちにとっ
て、それは、教会が絶えず立ち返るべき原点です。それゆえ、私た
ちは、教会の原点として、使徒言行録を学んでいきたいのです。
教会は、ペンテコステ(聖霊降臨)と共に、エルサレムに始まりま
した。そこでは、まず指導者ペトロによって、み言葉の解き明かし
(説教)が行われたのです。つまり、イエス・キリストを通してなさ
れた神の救いの業が、宣べ伝えられたのです。これが、教会におい
てなされた、そしてなされなければならない第一の務めです。
そして、第二に、エルサレムの教会では、2:42、使徒の教え、相
互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった、と伝えら
れています。つまり、それらを、欠かすことの出来ないこととした
のです。言い換えるならば、み言葉を学び、教会の秩序を守り、聖
餐を受け、祈ったのです。み言葉の学びと聖餐の式とは、福音宣教
と共に、教会では礼拝として受け継がれています。祈りは、祈祷会
として教会に受け継がれています。教会は、教会の秩序を守った上
で、礼拝を守り、祈祷会を守ったのであり、また、そうすべきなの
です。
この教会の原型は、宣教の担い手が、ペトロから、ステファノ、
フィリポを経て、パウロに受け継がれ、いわゆる異邦人教会が設立
されるようになっても、そのまま受け継がれました。
本日、降誕節第三主日の使徒書として与えられたのは、使徒言行
録16:11-15です。そこには、フィリピの教会が形成される時の様子
が記されているのですが、フィリピの教会でも事情は全く同じでし
た。パウロがはじめてギリシャ本土の土を踏み、フィリピの地に行っ
たとき、そこにはまだ、イエスを主とあがめる人々の教会は形成さ
れていませんでした。しかし、天地創造の神を畏れ、祈りをあわせ
る人々の集団はあったのです。そこでパウロは、その祈りの輪に加
わり、話した。(16:13) すなわち、み言葉を語ったのです。そこに、
聖霊が働いて、リディアという一人の裕福な異邦人女性の悔い改め
と回心が起こり、彼女と家族の者が洗礼を受け、ここにフィリピの
教会が始まったのです。
教会の原点は、み言葉を語ることと、祈りです。私たちは、主日
礼拝と祈祷会を守ることを、本当に大切にしているでしょうか。教
会が堕落する時、それは、様々な要因が働き、様々な形態でおこっ
てきます。しかし、共通して言えることは、イスラエル民族が偶像
礼拝によって、神の選びの民からそれていったように、教会の堕落
も、必ず、主日礼拝と祈祷会を軽んずる、ということを伴うのです。
そして、私たち自身はどうか、といえば、神の光に照らされたとき、
そこには、本当には主日礼拝を重んじていない、祈祷会を重んじて
はいない自分自身を見出すのではないでしょうか。
そのような私たちは、どうしたらいいのでしょうか。この答えは、
1月3日、1月10日に祈祷会で学んだエフェソの信徒への手紙に見出
すことが出来るのです。エフェソの信徒への手紙は、神の選びによっ
て、洗礼を受け、教会員となった人に対する戒めが記されています。
その第一の戒めが何か、と言えば、それは「心の目を開く」(1:18)
ということなのです。「心の目を開く」とはどういうことでしょう
か。また、何に対して開くのでしょうか。それは、エフェソの信徒
への手紙に拠れば、神がいかに恵みを与えてくださったか、また、
神がいかに多くの恵みを用意していてくださるか、を知るというこ
となのです。要するに、自分を神様に明け渡して、恵みで満たして
いただくことなのです。
リディアもそうでした。リディアの心が開かれて、彼女ではなく、
神が、聖霊が、彼女の中に働いて下さったときに、彼女に悔い改め
と回心とそして恵みが満たされたのです。そして、そこに教会が形
成されたのです。
私たちは、自分で頑張ってしまってはいないでしょうか。が、神
様が求めておられるのは、人間の頑張りではありません。神様が求
めておられるのは、私たちが自分の心を開いて神様に明け渡すこと、
その時はじめて、恵みは私たちの中に満たされ、全ての問題解決の
糸口が見出されるのです。
(2007/01/14 三宅宣幸牧師)
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