『神に愛されるイエス』
主たる聖書テキスト: ルカによる福音書 3章15〜22節
主の年2007年の最初の礼拝です。主の愛のご支配を信じて生
活して行きたいと思います。また、特にこの年は元住吉教会にとっ
ても大事な年になりますのでお互いにキリストを見上げてしっかり
と歩んで行くようにしましょう。
本日の中心テキストは、主イエスの公生涯に先立つ受洗の記事で
す。イエスは救い主、キリストとしての公生涯にお入りになる前に
バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。
洗礼、それは本来「罪の悔い改め」の行為でありました。しかし、
そうであるとしたならばイエスには洗礼は必要なことではありませ
んでした。何故ならばイエスは「罪を犯されなかった」(ヘブライ
人への手紙4章15節)からです。
では、イエスはどうして洗礼をお受けになられたのでしょうか。
それはこの出来事はクリスマスのメッセージ「神は我々と共におら
れる(マタイ福音書1章23節)」を再確認する出来事であるから
です。
ところで、ヨハネは今日のテキストの最初の部分で、自分のとこ
ろに来た民衆に対して「麦の収穫」の様子を例に引いて、人間の罪
に対する神の厳しい審きがあることを語り、イエスがそれを実行さ
れると言います。「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、
麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる
(3章17節)」
あるキリスト教学校の修養会で担任の先生が生徒に「その人の前
にでると絶対にうそがつけない人をもつといい・・・その人の目に
はどんな巧妙なからくりも通じないその人の眼に通じるものはただ
本当のことだけそういう人を持つがいい」というメッセージを送り
ました。
もし、私たちがメッセージにあるような相手を持つようにと言わ
れたらどうでしょうか。本当に大切なことですが私たちは自分の生
活を振り返ってその人の前に正しく立てるでしょうか。また、私た
ちの行いはその人の眼に耐えられるでしょうか。恐らくできないの
ではないでしょうか。
このようにもし神様が私たちに対して向かってこられたら私たち
は一刻も生きていられないのではないでしょうか。なんと恐ろしい
ことでしょうか。ヨハネはこのように自分のあとに出現するキリス
トの審判の厳しさを示しました。今日のテキストの前半を解説すれ
ばおおよそこのようになります。
ここで再びイエスの洗礼の意味に戻ります。先にクリスマスのメッ
セージは「神は我々と共におられる」と言いました。そして、この
メッセージをさらに考えれば「我々」とは、実は「罪人としての我々
自身」であるということです。つまり、神は罪人であり神の審きを
受けざるを得ない存在である、そういう私たちを愛し共にいてくだ
さる方である。「罪を犯されなかった」イエスがヨハネからあえて
洗礼を受けられたということはそのような意味が込められていたの
だということです。
さて、テキストはイエスが洗礼を受け、祈っておられると「天が
開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が天
から聞こえた。」(21,22節)記しています。
これは、イエスのなさった行為を神様が承認なさったということ
と同時に、神様がイエスを、人間を罪から救う救い主、キリストと
してお立てになったということ。遡れば、クリスマスのあの時、マ
タイが「イエスと名づけられた幼子は、自分の民を罪から救う」
(1章21節)と記したことが本当のこととして、いま再び十字架
の公生涯にお入りになる前に確認されておられるのだということを
示しているのです。
また「これは私の愛する子」という言葉はイエスに直接与えられ
たものに他なりませんが、イエスを通して私たち自身にも与えられ
ている言葉です。私たちはイエスを通して神に愛されている存在な
のです。しかも罪人であるにもかかわらずです。これはなんと嬉し
いことでしょか。このような嬉しさは他にあるでしょうか。私たち
はそうであるからこそ、厳しい神の前に歩んでいけるのです。
私たちはいま主の年2007年を歩み出しました。「主の年」と
呼ぶことができる幸いをかみしめ、喜んで神様の前を生きて行きま
しょう。
(2007/01/07 石井道夫牧師)
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