『全世界の罪を贖ういけにえ』
主たる聖書テキスト: マタイによる福音書 2章1〜12節、ヨハネの手紙一
1章1〜2章2節
マタイ2:1-12は、クリスマスの物語として有名です。東方としか
記されていないのでどこの国かはわかりません。が、ユダヤから見
て異邦の「マゴス」(星占い師ないしは占星術の学者)がヘロデ大王
のところへ来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこ
にいらっしゃいますか。」と聞いたものですから、ヘロデ大王は、
びっくり仰天いたしました。自分の地位を脅かす者の出現、と捉え
て殺害計画を練るのです。が、「マゴス」たちは、そんなヘロデの
思惑にはお構いなしです。ベツレヘムにて、幼な子のいる家を発見
し、幼な子を拝み、黄金、乳香、没薬の三つの贈り物を献げて、帰
っていったのです。その後、ヘロデ大王の殺害計画が実行され、イ
エス様ご一家はエジプトへ逃亡せざるを得なくなるのですが、この
物語は、ヘロデ大王に代表されるこの世の暗さと、イエス様のご誕
生によって示される光を対比しているのです。そのイエス様の光は
何でしょうか。それは星です。星が暗い夜にあっても光るごとく、
イエス様の光は、この世の暗さの中でも光り輝くのです。そして、
星の光が地上全てと、宇宙に光り輝くごとく、イエス様の栄光は、
全宇宙に示されるのです。それゆえ、「マゴス」たちは、異国にあ
りながらも主イエスを拝みにきたのです。
しかし、このイエス様のご栄光がいかにすばらしくとも、私たち
にとっては遠い存在なのではないか、と思われるかもしれません。
が、そうではありません。それは、私たちの罪と深くかかわってい
るのです。フィリピの教会の事例でみてみましょう。フィリピの教
会は、パウロが形成した教会の中では、最も福音が正しく伝えられ
ている教会でした。しかし、この教会にしても、二つの問題を免れ
ることは出来ませんでした。一つは、教会外から偽教師の教えが迫
ってきていたことです。偽りの教えは、むしろ真面目な信者にとっ
て脅威となります。そして第二は、教会内におけるいじめです。い
じめというと他人事のように思われるかもしれませんが、真面目な
人ほど、そのプライドのゆえに、内なる闘争心やねたみからしばし
ば解放されていないものです。フィリピの教会でも「獄中のわたし
(パウロ)をいっそう苦しめようという不純な動機から」(1:17)福音
を宣教する人がいたことが記されています。フィリピの教会は「よ
い」教会です。その教会にしてこれらの問題を抱えていた、という
ことは何を意味するのでしょうか。それは、召された者の集まりで
ある教会においても、私たち自身は、罪の力、悪の力から完全には
解放されていない、ということなのではないでしょうか。
それでは、私たちはこのような現実に直面して、「だから、人間
とは、この程度のものなのだ。」と諦めなければならないのでしょ
うか。そうではありません。人間とはこの程度のもの、いつまでた
っても罪の力、悪の力に振り回されるものであるから、だから、人
間の力によってではなく、キリストの罪の贖いによって救われつづ
ける必要があり、つまり、自分の真面目さに頼るのではなく、キリ
ストの栄光に与る必要があるのです。
キリストの栄光とは何でしょうか。それは、キリストがご自分に
栄光を帰した、ということではありません。それは、キリストがご
自分の栄光を棄てて、私たちの罪の贖いとなられた、そこにまこと
のキリストの栄光があるのです。ヨハネの手紙一1:1以下は、このキ
リストの「栄光を棄てることによって得られた栄光」がいかにス
ケールが大きいもので、徹底しているかを述べています。そもそも
キリストがもともと持っておられた栄光は並大抵のものではありま
せんでした。「初めから」(1:1)つまり天地創造以来のものだからで
す。それゆえそれを誇ってもよかったのです。が、へりくだられ、
人として生まれられるに止まらず、十字架の死を死んで、罪の贖い
となってくださいました。それは、私たちの罪が、フィリピの教会
にも見られるごとく何とも大きく深いからです。「善人」にこそ罪
は深く浸透しているのです。それゆえ、キリストはその栄光を棄て
て「罪の償いのいけにえ」(2:2)とならねばなりませんでした。しか
し、お棄てになったものが大きい分、再獲得された栄光はより一層
大きいものとなりました。私たちも自分の力に頼るのではなく、罪
を告白して(1:9)、キリストの栄光に与る者とさせていただきましょ
う。
(2006/12/31 三宅宣幸牧師)
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