『世の無力な者の召し』
主たる聖書テキスト: ルカによる福音書
1章26〜38節、コリントの信徒への手紙一 1章26〜31節
本日は福音書テキストとして、ルカによる福音書1:26〜38を与え
られました。この聖書テキストは「受胎告知」の場面を描いたもの
として有名です。天使は、神様の御心をそのまま伝える役割を担っ
ているのですが、その天使の頭ガブリエルがマリアのところへやっ
てまいりました。マリアはヨセフという人のいいなずけ、つまり婚
約者だったのです。が、まだ結婚はしていなかった彼女のところへ
来て天使はどう言ったか。「おめでとう。恵まれた方、主があなた
と共におられる。」という祝福の言葉と共に、マリアが聖霊によっ
て身ごもり、つまり結婚することなく子どもが与えられるというこ
とが告げられ、こうして彼女が身ごもったのが、イエス・キリスト
だったのです。
が、このいわゆる処女懐胎といわれる出来事に読者は大いに戸惑
いを覚えるのです。読者でさえ戸惑いを覚えるのですから、当事者
であるマリアの戸惑いはいかばかりだったでしょうか。しかし、マ
リアはそれにもかかわらず、これは主のなしたもうところであるか
ら、ということで、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、
この身になりますように。」と受け止めたのです。
しかしながら、我らの救い主イエス・キリストのご誕生が、何ゆ
えこのような戸惑いの出来事をもって始められねばならなかったの
でしょうか。その第一に考えられる理由は、人間の性を汚らわしい
ものと考え、清くあるべき神の子の誕生は、独身の女性からの誕生
がふさわしいとする考えです。イエス様と同時代のクムラン教団も、
人間の性は汚らわしいものだ、と考えていたようです。それで、律
法を守って、神により近づく生活をしようと志す者は、独身制を守
る事となったのです。が、神様は、イエス様の清さを保つために、
イエス様を処女降誕というかたちで誕生させたのでしょうか。
ところで、このキリストの母として選ばれたマリアはどういう女
性だったのでしょうか。清い女性、汚れを知らない女性だからとい
うことになるのでしょうか。カトリック教会でも、イエス様の母マ
リアは、罪の汚れなしにイエス様を懐胎したと考えています。しか
し、プロテスタント教会では、次のように考えています。讃美歌175
番(第一編95番)では、その第二節で「数に足らぬ わが身なれど
見捨てず 今より後 よろず世まで めぐみたもう うれしさ」と
歌っています。すなわち、讃美歌作者は、マリアをして、自分のこ
とを「数に足らぬわが身」と呼ばせているのです。マリアは「ただ
の(普通の)女性」なのです。が、もしそうだとすると、神様はどう
して、御子イエス・キリストの母として「ただの女性」を選ばれた
のでしょうか。
それは、本日の使徒書テキスト、コリントT1章によると次のと
おりなのです。28節「神は地位ある者を無力な者とするため、世の
無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられてる者を選ばれたので
す。」すなわち、もし神様が、重大な務めに、そのつとめにふさわ
しいだけの能力の十分に備わった人を選んだ、とするならば、それ
は当たり前のことで、その人は、神様から仕事をいただいたとして
も、自分の能力で仕事をしたことになるのです。その人の能力だけ
が見えてしまうのです。神様は隠れてしまうのです。しかし、神様
がもし、そのお仕事から見て、一見無力と見える人、無に等しい人、
そのお仕事からして身分が低すぎると思われる人、見下げられてい
る人をお選びになったとすると、誰が見ても、その仕事はその人の
能力でこなしたものではありませんから、神様のみ業がよーく見え
るのです。
マリアに関してはどうでしょうか。誰から見ても、キリストの母
にふさわしいマリア、清らかな、気品を備えた…そういうところに
キリストが生まれられたら、みな、当然のこととしか思わないでし
ょう。しかし、神は、キリストを「普通の女性」のところに生まれ
させることによって、神のみ業の大きさをすべての人に告げ知らせ
たのです。
実は、結婚前に身ごもるということは、当時の社会では決して
「清さ」のしるしとは見られませんでした。むしろ彼女はいわれな
き誹謗中傷にも耐えねばならなかったのです。しかし、彼女の「お言
葉どおりこの身になりますように」との信仰が、忍耐があって、主の
大いなるみ業が成就したのです。
(2006/12/24 三宅宣幸牧師)
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