『聖書が与える忍耐と慰め』
主たる聖書テキスト: ローマの信徒への手紙 15章4〜13節
新約聖書に登場するユダヤ教徒(ファリサイ派)の律法の捉え方は、
極端な例かもしれません。しかし、私たちも「木を見て、森を見な
い」と申しますが、聖書の細かい言葉に囚われて、聖書の伝える神
様の恵み全体を見失うことがありはしないでしょうか。そういうこ
とのないよう、本日は、聖書、特に旧約聖書の読み方について、
ローマ15:4-13から学んでまいりましょう。
ローマの信徒への手紙は、使徒パウロがローマ教会に宛てた手紙
ですが、まず、使徒パウロは、4節で「かつて書かれた事柄は、すべ
てわたしたちを教え導くためのものです。」と述べています。「か
つて書かれた事柄」とは、旧約聖書を指します。旧約聖書は、ただ
の読み物、歴史書ではなく、「わたしたちを教え導くもの」すなわ
ち、神から与えられた生活上の指針です。この点では、ユダヤ教徒
もキリスト教徒も見解を一とします。
しかし、そこから先が異なるのです。ユダヤ教では、旧約聖書は
戒律の書として、教団が人を、そして、ユダヤ教徒を裁くための道
具なのです。人は、旧約聖書によって、ユダヤ教徒としてふさわし
いかどうか判断され、そして一旦ユダヤ教徒になれば、旧約聖書に
よって裁かれるのです。
が、キリスト教は違います。4節後半「わたしたちは、聖書から忍
耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」
これは一体どういうことなのでしょうか。キリスト教はなぜこの
ような見方をするのでしょうか。キリスト教の旧約聖書観は、
ローマ4章に記されています。キリスト教の考え方によれは、旧約聖
書はまず何よりも、「神の恵みの書」です。天地創造は措いておい
て、神が選びの民に与えてくださった恵みは、アブラハムへの恵み
に始まります。神は、何者でもないアブラハムにまず恵みを約束し
てくださったのです。神がアブラハムに「あなたを大いなる国民に
する」と約束された時、彼は、ユダヤ教徒だったわけでもなく、戒
律を守る力がある、と認定されたわけでもありませんでした。神は、
いわば「ただの人」である彼に大いなる恵みを約束されたのです。
ところが、アブラハムがその約束を信じて出発したことにより、彼
に信仰が与えられ、彼は、この信仰により、信仰を通して救われた
のです。後に彼は、彼と彼の子孫とが割礼を受けることを、神に約
束いたしました。(創世記17章)が、割礼が神から恵みをいただくた
めの条件になったわけではなく、それは、恵みをいただいたアブラ
ハムの、信仰による応答、神への忠実、従順のしるしだったのです。
出エジプト記についても見てみましょう。エジプトで奴隷であっ
た民は、戒律を立派に守る民、ユダヤ教徒ではありませんでした。
しかし、神は、彼らを覚えて、出エジプトを実現させてくださった
のです。このような恵みをいただきながら、彼らには、アブラハム
と異なり、信仰がなかなか育ちません。十戒という形で、律法をい
ただきましたけれども、その第一原則、「神を第一とする」という
ことすら守れない、どうしようもない民でありました。本来でした
ら、神が彼らを厳しく裁かれるところです。ところが、神は忍耐し
つづけられたのです。それどころか、士師や王や預言者を送って、
彼らを危機から救い、指導し、警告を与えてくださったのです。そ
して、それでもどうしようもない民に、救い主メシヤ(キリスト)の
到来を予告してださったのです。これが、キリスト教が見た旧約聖
書の内容です。キリスト教にとっては、旧約聖書は、神の忍耐と慰
めの書なのです。
ゆえに、キリスト教会に捉えられた者は、旧約聖書から、守るべ
き戒律、裁かれるべき基準をいただくのではありません。神が、選
ばれた者をいかに愛してくださったか、を知り、私たちにも与えら
れた神の恵みを信仰をもって受け止め、さらにそのいただいた恵み
を隣人にも分かつこと、このことが求められているのではないでし
ょうか。
キリストは、この旧約聖書の精神を完璧に実現しました。キリス
トご自身は、ユダヤ教徒として育たれましたが、いのちをかけてそ
の限界を示され、神の恵みに立ち返るべきことをその生涯をかけて
訴えつづけられたのです。このキリストの犠牲により、未完であっ
た異邦人への救いが成就したのです。そして、私たちのところへ神
の愛の恵みがふり注がれることとなったのです。神を信じ、人を愛
する歩みを歩みましょう。
(2006/12/10 三宅宣幸牧師)
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