2006年11月26日

『鎌が地に投げ入れられる

主たる聖書テキスト: ヨハネの黙示録 14章14〜18節


 私たちは今日、収穫感謝日の礼拝を迎えました。この日は、教会
の暦から申し上げると、一年の最後の日です。この一年、私たちは、
イエス様のことを本当に信じて歩んできたでしょうか。イエス様の
兄弟やユダヤ人のように、血族であることや、自分の知識に頼って、
イエス様のお言葉を聞こうとしなかったり、あるいは、躓いたりし
てこなかったか、また、またひょっとして、イエス様を否定したり、
あるいは、十字架に追いやってこなかったか、大いに反省したいと
思うのです。

 さて、本日の使徒書テキストは、ヨハネの黙示録14:14〜18です。
黙示録という書物は、紀元後90年ごろに記されたと言われています
が、それは、ローマ皇帝ドミティアヌス帝の時代で、教会は激しい
迫害にあっていました。その時、見者ヨハネが、終末の幻を見まし
て、それを書き記したのが、黙示録であると言われています。

 神様は、確かに将来計画をお持ちでいらっしゃいます。そして、
天地創造をもって世界を始められた神様でいらっしゃいますから、
必ずや、終末の時も用意しておられるに違いありません。しかし、
将来のことは、まだ起こっていないことですから、今は幻という形
でしか示されません。が、その時になれば、すべてが明らかになる、
救いと裁きとが明らかにされるのです。

 14章は最後の救いと裁きについて、短く述べているところです。
まず救いですが、それは1〜5節に記されています。救われる人は14万
4千人とのことです。7章によれば、イスラエルの各部族から1万2千
人ずつで、計14万4千人と計算されています。しかも、救われる人は
童貞とされていますので。イスラエル人で童貞の人だけが救われる
かのように見えます。しかしそうではないのであります。聖書では、
童貞の逆、不品行は、神様から目をそらすことを指す言葉です。確
かに神から選ばれたイスラエルでした。しかし、彼らは、神様から
目をそらしつづけてきました。旧約の時代もそうでした。そして、
新約の時代にも、ユダヤ人たちはしばしばイエス様に躓き、神様か
ら目がそれてしまったのです。それでは誰が救われることができる
のでしょうか。6節を見ると、天使が「地上に住む人々、あらゆる国
民、種族、言葉の違う民、民族」に永遠の福音、つまり「神を畏れ、
その栄光をたたえること」「天と地、海と水の源を創造した方を礼
拝すること」を勧めています。この天使の声を聞いて呼びかけに応
える人は、「信じる者」です。神様は、悔い改めて信じる者には、
民族を問わず、救いを用意していてくださるのです。

 一方、裁きはどうでしょうか。これは8節以下に記されています。
まず大バビロンが裁かれます。そして第二に、獣とその像を拝む者
が裁かれます。ここで裁かれる者については、黙示録が書かれた当
時の教会では、ローマとローマの神(皇帝)を拝む者と受け取られて
いました。しかし、今はそれだけではありません。教会に属する者
でも、まことの神を見失った者には、厳しい裁きが用意されている
のです。さて、刈り入れの時がやってきました。刈り入れとは、聖
書では、審判の時、全てが明らかにされる時のことです。人の子の
ような者(再来のイエス様)がお出でになり、地上に鎌を投げ入れら
れるのです。すると、たちどころに刈り入れが行われ、よく実った
よいものと、そうでない悪いものとがより分けられるのであります。
ぶどうも然り、そして、滅ぶべき者は、徹底的に搾られるのです。

 以上が、見者ヨハネによって示された終末の裁きですが、私たち
はこの幻をどのように受け止めたらいいのでしょうか。ディッケン
ズに「クリスマス・キャロル」という小説があります。スクルージ
という大変けちな我利我利亡者が主人公です。が、ある時自分の将
来の幻を見させられるのです。そこには裁きを受けた惨めな自分の
姿がありました。それを見た時、彼は、今の自分が間違っていた事
に気づいたのです。気付いた彼は、悔い改めて、愛に生きる人と造
り変えられました。また、ルカ13:6以下には、「実のならないいち
じくのたとえ」が記されています。3年も実のならないいちじくです。
でももう一年待って、しかも肥料をやってくれる園丁がいます。み
言葉は、私たちに気付きを求めています。忍耐強く待つ神の愛に気
付く者とされたいものです。

(2006/11/26 三宅宣幸牧師)

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