『封印を押された人々』
主たる聖書テキスト: ヨハネの黙示録 7章2〜4,9〜12節
キリスト教会は、キリストを通して神の愛を示され、希望を与え
られた人々の群れとして、ユダヤ人ばかりでなく、異邦人にも開か
れた新しい「イスラエル」−神に選ばれた民−として出発しました。
それゆえ、教会の実現によって、神のみ業が一歩前進したのです。
しかし、そこで、このキリスト教会の出現によって、あるいは影響
されて、この世が、少しでも神の御心に沿う、秩序あるものへと変
わっていったか、というとそうではなかったのです。コヘレトの時
代も正義は行われていませんでした。しかし、ペルシャののち、ギ
リシャが興り、世界を支配しました。そのあと、王国は四つに分裂
し、世界はますます希望のないものへと変わっていったのです。ダ
ニエル書8:23には、この四つの国について、次のようなことが言わ
れています。「四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして、高慢
で狡猾な一人の王がおこる。自力によらずに強大になり、驚きべき
破壊を行い、ほしいままにふるまい、力ある者、聖なる民を滅ぼす。」
これは、セレウコス朝のアンティオコスW世のことを言っているの
ですが、ついに、この世の代表である王が、聖なる神殿を破壊する
までに至る、そこまでこの世が悪くなってしまったのです。そして、
この悪は、次いで世界の支配者となったローマに引き継がれ、初代
教会の時代、世界にはローマの悪が蔓延していたのです。
さて、本日、私たちは使徒書テキストとして、ヨハネの黙示録を
与えられました。このヨハネの黙示録は、一世紀末、ドミティアヌ
ス皇帝の時、キリスト教会に対する大迫害がおこった、その時に書
かれたらしいのです。そもそも、イエス・キリストを十字架刑に処
したポンテオ・ピラトはローマの総督でした。ローマは、キリスト
の愛に反対する存在でした。そして、ローマという国は、倫理的に
も乱れ、悪の支配する国でした。そして、A.D.64年、ネロ帝の時に
至って、キリスト教会への迫害が始まるのです。ローマでおきた大
火の原因をキリスト教徒になすりつけ、放火の罪で、キリスト教徒
を捕らえたのです。捕らえられたキリスト教徒は、ライオンの餌食
にされたり、剣闘士にされたと言われております。この迫害が、ド
ミティアヌス帝に受け継がれ、ヨハネの黙示録がかかれた時代、教
会を恐怖に陥れたのです。
ヨハネの黙示録には、「太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭
に十二の星の冠をかぶった女性」と、それを襲う獣が登場します。
その獣は、七つの頭と十本の角を持つ赤い竜であったり、十本の角
と七つの頭を持つ獣であったり、二本の角を持つ獣であったり、最
後には、大淫婦を乗せた十本の角をもつ赤い獣であったりするので
すが、これらは皆ローマ帝国を表していると言われます。ヨハネの
黙示録には、それらの獣が女性、すなわち教会を襲う姿が描かれて
いるのです。
襲われた教会がどうなるか、と言えば、多くの者が殺されてしま
うのです。苦しみがあります。しかし、最後の最後まで耐えた者た
ちには、最後の裁きを経て、新しい天と地、つまり空しい世界は終
わり、完全な、神の正義が全うされる世界を見ることが許されるの
です。21:1に「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。最初
の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」と言われ
ているとおりであります。
この新しい天と地はどういう天と地でしょうか。同じく21:3に
「見よ。神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の
民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙を
ことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみ
も嘆きも労苦もない。」という、まことの平和の実現した世の中な
のです。もちろん、いつのことかはわかりません。しかし、ここに
希望が与えられました。
しかし、人間は、希望は与えられていても、なかなか耐えて我慢
するということができません。当時の教会もそうでした。そして、
教会は誘惑に負けて、違う教えに走ってしまいました。黙示録の冒
頭に記されている七つの教会(これは、全世界の教会という意味です
が)もそうでした。この世は空しいから、この世での努力を諦め、霊
の力、知識に頼って、この世の苦しみを逃れようとしたのです。が、
それでは終末の時の救いに与れない、神の愛も見失うこととなる。
それで、イエス様の愛を呼び覚ますための励ましが今日のテキスト
なのです。教会は神の民、そして確かに印を押され、神の選びに入
れられているのです。
(2006/10/22 三宅宣幸牧師)
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