『もっとも大切なもの』
主たる聖書テキスト: ルカによる福音書 12章13〜21節
イエス様がお語りになっていらっしゃるときに、ある一人の人が
「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってくださ
い。」と言うのです。私はこのある一人の人に大変興味を持ちまし
た。だって、イエス様の時代の物語のはずなのに、今の、現代の日
本人みたいなのですから。日本人の場合、どれだけの遺産を残すか
が、親の子に対する愛情のしるしとなります。何もあげられないけ
れど、愛情だけあげる、というのは成り立ちません。ですから、受
け取る方も真剣です。遺産相続の争いは、単なる財産争いではなく、
親の愛情の奪い合い合戦になるゆえ、それだけ遺産相続の争いは熾
烈になるのです。
イエス様が日本人だったら、ここで一生懸命調停をなさったこと
でしょう。なぜなら、この調停は、ただの財産の調停ではなく、愛
情の調停でもあるからであります。でも、イエス様はこの調停には、
一切係わりませんでした。そして、「どんな貪欲にも注意しなさい。
有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうするこ
ともできないからである。」と日本人にはきわめてわかりにくいこ
とをおっしゃいました。そして、お語りになったのが、「愚かな金
持ち」のたとえ話なのであります。
あるところにある金持ちがいました。ヨブの時代よりは少し進化
を致しまして、この人は財産を畑として所有していました。で、そ
の畑が豊作だったのです。事件はそれだけなのです。さあ、この金
持ちはどうしたか。そして、読者はどう考えるか。というのが、こ
の物語の問いかけなのですが、皆様でしたら、どうなさいますでし
ょうか。
この金持ちはどうしたでしょうか。この金持ちはひとり言のよう
にこう言います。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建
て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。
『さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休
みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」この人、日本人そのも
のではないか、と思うくらい日本人です。食べたり、飲んだりして
楽しめ、とは言うものの、実はそれほどの贅沢はしなかったのでは
ないでしょうか。財産を持っていることに、価値を感じていたので
あります。
この物語には、「愚かな金持ち」のタイトルがついていますが、
聖書の原本にはタイトルがついていません。そして、私たちから見
て、そこに自分の姿を見出すような、立派な金持ちが、神様から
「愚かな者よ、今夜、お前のいのちは取り上げられる。」と宣告さ
れ、たぶんその日のうちに亡くなったであろうところで、この物語
は終わるのです。
この金持ちのどこが愚かだったのでしょうか。日本人にとっては
なかなか納得がいかない話です。悪事を働いて、不当な収入を得た
金持ちが、命を奪い取られるならよくわかる。しかし、正直な人は
財産に恵まれなければならないのです。一体、この人のどこが愚か
なのか。ここで聖書は、この金持ちが遺産相続の相手を決めていな
かったから、あるいは神の前に献金しなかったから愚かだ、と言っ
ているのではなく、財産の多寡と、いのちの価値と全く関係ないの
だ、ということを言っているのです。
聖書は、私たちに次のように告げています。いのちの価値は、財
産の多寡によって決まる者ではありません。神様から愛されている
愛によって決まるのです。そして、その神の愛は、平等に、と言っ
ても、皆に同じ量ということではなく、それぞれに必要な量だけ、
十分に注がれているのです。見捨てられている人は一人もいません。
聖書では、神に逆らう人のことを罪びとと言うのですが、神様は、
この罪びとをも平等に愛してくださいました。ひとり子イエス・キ
リストをこの世に遣わして、罪びとの罪の身代わりに死なせ、そこ
までして愛してくださったのです。この金持ちは、そして日本人は、
この神様の愛に気付かないできた、知らないできた、そして、自分
で財産をためこむことによって、自分の価値を確かめようとしてき
た、それが、間違いだったし、失敗の原因だったのです。以上が聖
書のメッセージです。いかがでしょうか。もし、この愛に気付いた
なら、心配することはありません。たとえ財産が失われることがあ
っても、神様の愛は決して失われないのです。
(2006/10/15 三宅宣幸牧師)
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