2006年10月08日

『キリストの苦難を負う

主たる聖書テキスト: コロサイの信徒への手紙 1章21〜29節


 イスラエルの民でない、異邦人である者が、どうやってまことの
神を知ることができるのか、ヨブの時代、創造主なる神が、すべて
を超えて、直接に出会ってくださる他、ありませんでした。この出
会いによって、ヨブは、自分の苦難が神の罰のゆえではないのだ、
ということを知り、神の愛を受け止めたのです。が、今の私たちの
時代には、イエス・キリストがいらっしゃいます。イエス・キリス
トが十字架の贖いの死によって、私たちと、神との間を開いてくだ
さったのです。本日、与えられました使徒書テキスト、コロサイの
信徒への手紙の宛先になっているコロサイ教会の信徒たちも、異邦
人として、イエス・キリストの愛の業に触れて、愛の神に出会った
一人でありました。

 教会に導かれる前、コロサイの信徒たちはどのような状態だった
のでしょうか。1:21には「神から離れ、悪い行いによって心の中で
神と敵対していた。」とあります。知らずに、神の御心に背くこと
を行っていたかもしれません。しかし、そればかりでなく、真面目
な、神を畏れる人であったとしても、ヨブの悩みから逃れることは
できなかったのではないでしょうか。ヨブと同じように、不幸に出
会ったとき、人からは、「何か悪いことをしたに違いない。バチが
あたったのだ。」と責められる。自分でも、多くの人はヨブほど潔
白ではありませんから、「何か、自分が悪いことをしたから、不幸
に出会ったのではないか。」と不安に駆られる、そのような、平安
のない生活を送っていたのです。

 しかし、コロサイの信徒は、変わりました。エパフラス(1:7)を通
して、主イエス・キリストの十字架の愛を知り、一方的に私たちを
愛してくださる、愛の神を知るのであります。おそらく、自分が神
に見捨てられた存在なのではなく、愛されている存在なのだ、とい
うことを確信し、喜びにみちあふれたにちがいないのてす。

 しかしながら、真面目なコロサイの信徒たちは、キリストを通し
て、愛の神を知った、出会ったにもかかわらず、まだふらついてし
まうのです。直接のきっかけが何であるかはわかりません。時代的
にみると、迫害かもしれません。そうでないかもしれません。いず
れにしても、クリスチャンになっても襲ってくる苦難に対して、異
邦人性が出てしまうのです。やはり、自分が何か悪いことをしたか
らではないか、と恐れ、そして、自分で、正しい人間になって神を
喜ばせよう、と努力してしまうのです。この弱さに対して、使徒パ
ウロは、そうではないでしょう、イエス・キリストの贖いの愛の業
は、天地を造りたもう愛の神そのものの業なのであって、「自信を
もちなさい。揺らぐな。」(23節)と励ました上で、苦難の意味につ
いて語るのが、今日のテキストです。

 そこまで人が神に愛されているとすると、人が人生において出会
う苦難の意味が変わってきます。異邦人の信仰では、それは、神の
罰でした。否定さるべき、できれば経験しないほうがいいことでし
た。が、神の愛を受けたパウロは、自分が受けてきた様々な苦難を
振り返って、「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満た
している。」(24節)ゆえに、喜びである、と言っているのです。何
と大胆な勇気ある言葉でしょうか。もちろん、キリストの苦しみは、
たとえパウロをもってしても、人が担い得るような安易なものでは
ありません。しかし、神に本当に愛されている者という角度から見
ると、人の苦しみも、神の栄光を表す道具となることができるので
す。なぜ、もっとも否定さるべき苦しみが、プラスに転じるのでし
ょうか。それは、キリストこそ、苦しむこと、神から捨てられ、呪
われた十字架の苦しみを通して、神の、言葉に言い尽くせない愛を
示してくださったからなのです。キリストの教えだけでは、人は、
感動はしても、救われなかったかもしれません。しかし、十字架の
苦しみがあって、人は救われた、そこに喜びがあったのです。キリ
ストにある苦しみは、人を救う力があるのです。

 もちろん、苦難に安易な慰めは無用です。しかし、エリ・ヴィー
ゼルの『夜』の感動的な場面にあるごとく、キリストが、私たちの
ために、今苦しんでいてくださる、神は、そこまでして私たちを愛
していてくださる、その事実だけは忘れずに、信仰生活を歩んでい
きたいものです。

(2006/10/08 三宅宣幸牧師)

※このページに関するご意見・ご質問は三宅牧師までお寄せ下さい。miyake@aksnet.ne.jp


(C)2001-2006 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.