『キリストの恵みに与る』
主たる聖書テキスト: マルコ福音書 14章22〜26節
本日の礼拝は「世界聖餐日」の礼拝として守ります。今日の世界
にはカトリックやプロテスタントといった様々な教会が信仰の理解
や制度、礼拝の方法、聖書の理解を巡って分かれて存在しています
が、この日はお互いの信仰や生活の違いがありながらも、礼拝の中
で聖餐に与ることを通して、キリストにあって教会はひとつである
という教会の原点をお互いに確かめ合おうとして定められました。
講壇の前には既に用意が整っていますが、聖餐式は洗礼式と並ん
で教会が最も大切にしている信仰の儀式です。私たちの所属する日
本基督教団の信仰告白は「・・・教会は主キリストの体にして、恵
みにより召されたる者の集いなり。教会は公の礼拝を守り、福音を
正しく宣べ伝え、バプテスマ(洗礼)と主の晩餐(聖餐)との聖礼
典を執り行ひ・・・」と教会の本質を規定しています。
また、日本で最初に設立されたプロテスタント教会である「日本
基督公会(現在の日本キリスト教会横浜海岸教会の前身)」の設立
にあたって、この教会をつくった人たちは「この地に聖餐に与る者
の群れをつくる」という目的を明確に持っていたといわれます。
ところで、マルコ14章22節以下の「最後の晩餐」と呼ばれる
イエスと弟子たちの最後の食事は当時「過越の食事」と呼ばれてい
ました。この食事は、旧約時代の出エジプト(エジプトの支配から
の解放)を記念してイスラエルの歴史の中で代々守られていた食事
でした。(出エジプト12章)イスラエルの人々はこの食事の度毎
にその時々の支配者からの解放を待望していました。
しかし、イエスご自身は人間が本当に解放されなければならない
のは人からの支配ではなく「罪の支配」からだとお考えになりまし
た。森有正という信仰者は「罪という問題が解決しなければどうし
ようもない」と言いましたが、換言すれば、人間は神様との間にあ
る問題「罪」が解決しなければどうすることもできないのだという
ことです。
私たちは、普通罪というと具体的な行為を考えがちですが、聖書
でいう罪とは相手を正しく愛することが出来ないということに他な
りません。相手と正しい関係に生きていないということです。私た
ちが生活の中で人を憎んだり、恨んだり、妬んだりするのはみなこ
のことに起因するのです。
そして、その罪の中心に神を忘れ自分のことばかり考えていると
いう罪があります。この中心にある罪を、換言すれば神様との関係
を正しくしなければ、人間の衣食住の生活の中で起こってくる様々
な問題は本当に解決しませんし、人間の心と体は本当に癒され解放
されることはありません。
人間の罪は人間のものですから人間が当然負わなければなりませ
ん。しかし、人間が罪を負おうとすればその報いとしての死を覚悟
しなければなりません。一体誰がこの厳しい審きに耐えられるので
しょうか。
イエスは、パンを裂き弟子たちに与えて「これは私の体である」
と言われ、また杯を取り「これは多くの人の(罪の購いの)ために
流されるわたしの血である」と言われました。このイエスのお言葉
はご自身の十字架における死を予告するものであり、そしてその死
は、人間の罪の購いとなるための死であるということを表明するも
のに他なりません。
これから行なわれる聖餐式の中でパンとぶどう酒(汁)が配られ、
一緒にいただきます。その前後に「これはあなたのために裂かれた
主イエスの体です。・・・これはあなたのために流された主イエス
の血潮です。・・・感謝をもってこれを受け心の内にキリストを味
わうべきであります。」という言葉が司式者によって与えられます。
罪びとであるこの私の救いのためにイエスは十字架に架かり死ん
でくださった。このはかることのできない「キリストの愛」そして
十字架のキリストを通して罪を赦し正しい関係を回復してくださっ
た「神の恵み」を心からの感謝を持ってこころに刻む時、それが今
日の世界聖餐日の礼拝であります。
今日から始まる新しい一週間。キリストの恵みに生かされつつ、
キリストの十字架を伝える信仰生活でありたいと思います。
(2006/10/01 石井道夫牧師)
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