2006年09月10日

『愛とは何か

主たる聖書テキスト: コリントの信徒への手紙一 12章27〜13章13節


 旧約聖書ルツ記に見られる、異邦人へも及ぶ神の愛は、新約聖書
において、さらに発展させられています。
 新約聖書の時代にも、イスラエルの堕落がありました。言うまで
もなく、そもそも、イエス・キリストは、ユダヤ人、イスラエルの
民の一員としてこの世に遣わされたのです。そして、まず第一に、
ユダヤ人、イスラエルの民の悔い改めを求められたのであります。
しかしながら、多くのユダヤ人、イスラエルの民は、イエス・キリ
ストが、神から来られた神の一人子であられること自体を否定いた
しました。そして、何と「神を冒涜する者だ」として、主イエスを
十字架の死に仕向けてしまったのです。この点、神に背き、しかも
悔い改めることをせず、神から遣わされた「神の人」サムソンを、
死に至らしめてしまった士師時代のイスラエルと全く同じでありま
す。

 さらに、ユダヤ人たちは、そのイエス・キリストのことばと業を
福音として宣べ伝えようとした使徒たちを、神の名の下に迫害し、
殺害するに至りました。まさに、士師後の、神を見失い、内輪で殺
し合いをするに至ったイスラエルと同じ状況となってしまったので
す。

 この、またもや堕落したイスラエルを前に、神はどうされたでし
ょうか。もう一度、ご自身の中にある「異邦人への愛」を呼び覚ま
されたのです。イエス・キリスト以後、本格的な異邦人伝道は、使
徒言行録で言うと、16章から始まります。神は、異邦人伝道のため
に、何と、それまでコチコチのユダヤ主義者であったパウロをお立
てになられます。そして、そのパウロの夢の中で、マケドニア人(ギ
リシャ人)、つまり当時の異邦人の、救いを求める叫び声を聞かせる
のです。「わたしたちを助けてください。」(使徒言行録16:9)パウ
ロは、この叫びを聞いて、すぐに出発いたしました。神を知らずに、
悪や苦しみの中で、そこから抜け出る術を知らず、苦しみつづけて
きた異邦人に、今や、恵みの時、救いの時が到来したのです。パウ
ロは使徒としてギリシャ本土へはじめて渡り、フィリピ、テサロニ
ケ、ペレヤ、アテネ、そしてコリントと、ギリシャの主要都市を廻
って伝道するのです。これらの都市には、既にユダヤ人が住んでお
りましたので、ユダヤ教からの改宗者もありました。しかし、ユダ
ヤ人の多くは、パウロの説くところのキリストの福音を頑なに拒否
したのでして、進んでこの福音を受け入れたのは、異邦人だったの
です。

 とりわけ、パウロは、コリントの町には、使徒言行録18章によれ
ば、1年6か月にも亘って滞在し、多くの異邦人を教会に招き入れま
した。コリントの教会は、使徒パウロを通して、神の、異邦人にも
及ぶ、深い、広い愛を、心行くまで堪能した、そういう多くの恵み
をいただいた教会だったのです。

 ところが、そのコリントの教会が、パウロが教会を去った途端、
神の愛から離れるのです。真似などしなくてよい、不信仰のイスラ
エルの真似をしだしたのです。神の愛の力でなく、霊の力に頼り始
めたのです。霊というと、日本の文化の中で育った者は、「おばけ」
を想像してしまいます。しかし、ギリシャの伝統の中で霊とは、霊
魂を中に宿している人間の持つ知的な能力のことを言うのです。だ
から、その知性を用いて、教えを説いたり、預言をしたりする、そ
ういう能力に長けた者もおります。しかし、この知性の能力は、そ
こに止まりませんで、その知性の能力を生かして、病気を癒したり、
奇跡を行ったり、異言という宗教的恍惚をさそう言葉を語る者もい
たのです。

 これらの能力は、一つずつ取り上げてみると、すばらしいものか
もしれません。しかし、その能力に頼り、自分たち異邦人が救われ
たそもそもの元である、神の異邦人にも及ぶ愛を忘れたらどうなる
か。異邦人の場合には契約もないのですから、元も子もなくなって
しまうのです。

 本日のテキストで、愛とは、神の異邦人にも及ぶ愛のことを言っ
ています。そして、パウロは、コリントの教会に対して、「あなた
がたの拠り所」は、神が異邦人にも注いでくださった愛しかないで
しょう、と力説しているところなのです。キリストがすべての人の
ために、命を賭けて罪を贖ってくださったその愛こそすべてなので
す。その愛に気付き、悔い改めの一歩を踏み出したいものでありま
す。

(2006/09/10 三宅宣幸牧師)



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