『主の訓練』
主たる聖書テキスト: ヘブライ人への手紙 12章3〜13節
イスラエルの民は、「神を第一とする」という生き方を具体化す
るために、幕屋を建設し、モーセの兄弟アロンを祭司として建てま
した。祭司の第一の仕事は何かと言えば、それは献げ物を献げる仕
事だったのです。レビ記16章は、この献げ物のうち、贖罪の献げ物
の献げ方について詳しく記しています。祭司は自分の罪の贖いの為
に雄牛を、民全体の罪の贖いの為に雄山羊をほふり、その血をふり
まくのです。そうやって、犠牲として、雄牛、雄山羊の血が流され
ることによって、神の怒りがなだめられ、イスラエルの人々が罪の
赦しの中に生きられる、と考えられたのです。
しかし、そのような雄牛、雄山羊を犠牲とする執り成しで、本当
に私たち人間の罪は赦されるのでしょうか。私たち人間の罪は、そ
のような動物犠牲では贖いきれないくらい大きいのではないでしょ
うか。そのような問いを、ヘブライ人への手紙は問いかけているの
です。「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪
を除くことのできないいけにえを、繰り返して献げます。」(10:21)
「雄牛や雄山羊の血は、罪を除くことができないからです。」(10:4)
もちろん動物の犠牲も、大祭司の祈りも尊いものではありますが、
これらのものも神の前には罪人に過ぎず、限界があるのです。ては、
どうしたらよいのか?…本当に全人類の罪を償うためには、全く罪の
ない者による執り成し、犠牲が必要となってくるのです。その者は
誰か? それは、神御自身、そして、御子をおいては他にないのです。
すなわち、御子の執り成し、犠牲によって、全人類の罪のための執
り成しが初めて可能となるのです。しかし、そのようなことは可能
なのか?…神は、その求められていることを、そのまま、実行してく
ださったのです。
ヘブライ人への手紙は、このような御子イエス・キリストによる
完全な執り成しの業を称して、主イエス・キリストのことを「永遠
の大祭司」と言っています。「けれども、キリストは、既に実現し
ている恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で
造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大き
く、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、
御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いをなしとげ
られたのです。」(9:11-12)主イエス・キリストによる全人類の罪の
贖いのための執り成しの犠牲、これは、十字架の死のことを言って
いるのですが、は、旧約時代の不十分な犠牲と違って、完全なもの
でした。ですから、一度で十分である、完全である、それゆえ、主
イエス・キリストは「永遠の大祭司」である、と言われるのです。
すなわち、私たちは、かつての、大祭司が動物犠牲によって執り成
しの祈りをしていた時代と比べて、十分すぎるくらいの贖いの恵み
をいただいているのです。
このような、たくさんの恵みをいただいている私たちはどう生き
たらいいでしょうか。一つの生き方は、キリストが完全な贖いをな
してくださったのだから大丈夫、とさらに罪を犯しつづける生き方
です。こういう生き方は許されるのでしょうか。ヘブライ人への手
紙は次のように言います。「もし、わたしたちが真理の知識を受け
た後にも、故意に罪を犯しつづけるとすれば、罪のためのいけにえ
は、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する
者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。
…神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたも
のと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰
に値すると思いますか。」(10:26-29)すなわち、永遠の大祭司とし
ての主イエス・キリストの贖いが完全なものである分、逆に、それ
を足蹴にすることは許されないのです。
そうではなく、求められているのは、「すべての重荷やからみつ
く罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り
ぬこうではありませんか。」(12:1b,本年度の教会標語)という生き
方です。与えられている恵みが完全なものである以上、私たちには、
悔い改めて、主イエスを見つめつつ、歩む以外に救いの道はないの
です。もちろん、その歩みは平坦ではないかもしれません。いや、
平坦ではないでしょう。しかし、目先の現実に目を奪われて不平、
不満を言うことのないように、困難は「鍛錬」と読み替えて、いた
だいた恵みをしっかりと見つめつつ、耐え抜こうではありませんか。
(2006/08/13 三宅宣幸牧師)
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